レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 13

 十九世紀後半から二十世紀中盤にかけての実証主義が優勢な時期においては、マルクス主義の支配的な部分は、こうした事実上の還元を行なった。全般的に無視されていた言語理論において直接的にではなく、意識についての考察や、「イデオロギー」や「上部構造」のカテゴリーのもとにまとめられた実践的な言語活動を分析する際に慣習的に行なわれたのである。その上、こうした傾向は、言語の物理的側面についての重要な科学的研究に誤って結びつけられることによって補強されていた。この結びつきは物質としての言語を強調することと完全に合っていたが、「世界」と「我々がそれについて語る言語」との、或いは別の言い方をすれば、「現実」と「意識」との事実上の分離を含んでおり、言語の物質性は物理的なものとしてのみとらえられ――物理的属性の集合として――物質的活動性としてはとらえられなかった。事実、科学においては抽象化された身体能力と人間によるその実際の使用とは分けられるのが普通である。そこから生じる状況は、フォイエルバッハの第一「テーゼ」についての言及で、別の文脈ではあるが、マルクスによって十分に記述されている。

 

現在にまで至るあらゆる唯物論フォイエルバッハを含む)の主要な欠点は、我々の諸感覚を通じて把握される対象、現実を観想の対象(anschauung)という形でのみ理解し、主観的ではない感覚的な人間の活動実践として理解しなかったことにある。それゆえ、唯物論に対立する観念論によって活動は抽象的に考察されてきた――もちろんそれは、現実の感覚的活動については知ることがなかったのである。(『ドイツ・イデオロギー』)

 

 実際、これが言語に関する思考の状況である。ヴィーコとヘルダーによって強調された活動性については、ウィルヘルム・フォン・フンボルトによって著しく発展させられた。言語の起源という受け継がれた問題も注目すべき形で言い換えられた。もちろん、言語はある意味において進化の歴史のなかで発達してきたものであるが、事実上我々はそれについてなんら情報を持っていない。むしろ、活動性の本質を構成するものについて調査を行なえば、いつでも言語はそこに、研究に必須の対象に含まれているのを見る。言語は永続的な創造と再創造、力動的な現前と常に変わらぬ再生過程にあるものとして見られるべきである。しかし、再び、この強調は異なった方向に向かうことがあり得る。これは全体を、分割することのできない実践を強調することと論理的に結びつき、「実際の生の生産と再生産」に必然的な形式として「力動的な現前」と「常に変わらぬ再生過程」が考えられることとなる。フンボルトと特にその後継者によってなされたのは、この活動性の観念を本質的に観念論的な仕方で、疑似社会的な形式に投影したことである。「民族精神」や(非歴史的な)「集団意識」の抽象化に基づいた「国家」、或いはヘーゲルのような、物質的社会的実践とは切り離され、それに先行する自己創造的で、抽象的な創造の能力である「集団精神」、或いは、より説得力があるが、「創造的な主体性」として、意味の出発点として抽象化され定義される「個人」である。

 

 こうした様々な投影の影響は深く長きにわたっている。「国家」という抽象観念は言語の「語族」や個別な言語の受け継がれた特質について研究する主要な語源学と容易に結びつきうる。「個人」という抽象的観念は、ロマン主義の「芸術」と「文学」の概念において生じ、「心理学」の発達において主要な部分を占める、主要な主体的現実の強調と、そこに意味と創造性の「源」を見ようとする試みに容易に結びつきうる。

 

 かくして、こうした思考法に決定的な寄与をなし、通常、「反映」の隠喩のもとに、実証主義や客観的唯物論において定式化される固有な受動性という考えを決定的に矯正した活動としての言語という考え方は、今度は、特殊な活動性(必然的に社会的物質的であり、十全な意味で歴史的である)から「国家」、「精神」、「創造的個人」として範疇化される活動性の観念に還元されることになった。こうした範疇の一つである「個人」(特殊で、唯一無比な人間存在はもちろん疑うことはできないが、そうした存在がもつ共通の属性を「個人」或いは「主体」として一般化することは、既にして直接的な社会的な意味をもった社会的範疇である)客観的唯物論の主流においても顕著であることは意味深い。「客観的現実」という範疇から活動性、作りあげることが排除され、その代わりに観想する「主体」だけが残されるが、この主体はある場合には、客観的現実の観察において無視され――活動的な「主体」が中性的な「観察者」に取って代わられる――、ある場合、言語について或いは他の実践について語る必要があるときには、「間主観的な」関係としてあらわれ――言語が制定し確立する諸関係のなかにともにあるというよりも、異なった区別される個々人として互いに情報や「メッセージ」をやりとりするのである。言語は、本質的に活動によって構成されるという定義はここで決定的に失われてしまう。なにかを伝えたいときに個人によって取り上げられる道具、器具、媒体であり、そもそもの始めから互いの関係とコミュニケーションを可能にしただけでなく、実践的な意識をもたらし、活動的実践としての言語を有する能力とは異なるものとされるのである。