ケネス・バーク『動機の修辞学』 5

.. アーノルドの形象の質

 

 我々がここで言おうとしていることはなんだろうか。「エトナ山のエンペドクレス」と『サムソン』に一段階を差しはさむことで両者がどのように見えてくるかを探ろうとした。サムソンは敵を滅ぼす好戦的行為のなかで自ら死したが、我々は彼を後の詩人の手になり同じ「歴史の曲線」の属する二人の人物と比較しようとした。最初の人物(エンペドクレス)は自殺によって死に、第二の人物(ソラブ)は戦争によって死んだ。だが、エンペドクレスとソラブを一緒にし、それを二人に同一化する詩的動作主に共通する同じ態度の異文とみなすことで、我々は自殺による死と、戦争による死に共通する性格を確かめようとした。ここで、ミルトンの詩を振り返ってみると、そこでは一つの詩に、アーノルドが二つに分けたものが統合されているのを見いだす。自殺と戦死は同じイメージに結びつけられている。

 

 なにが我々の問題なのか見てみよう。我々は二つの道を同時に進んでいるように思える。ある点からすると、我々はそれらの詩を<同一の>動機づけをもつ諸例としてまとめようとしている。だが、別の点からすると、この動機がそれぞれの詩においてあらわれる唯一無二の文脈がその動機そのものを三つの詩においてまったく<別のもの>にしていると主張している。ここまでの考えは読者にも理解されているだろうか。例えば、ミルトンの神権政治主義を背景にした怒りは、「好戦的」といっても「ソラブとラスタム」の戦いとは大きく異なっている。父の名が呼ばれたことによって死ぬこの戦士には、それ以外にも、いくつかの特徴的な非好戦的なイメージがある。荒れ地のなかで傷ついたソラブを見たラスタムは、

 

        その若者は

年齢といい外見といい愛する息子のようで

傷ましくも高貴な姿で砂の上に横たわっている

不慣れな庭師が刈り取った

草地がそばにあって

よい匂いのする紫色の花の塔が

刈られた枯れ芝の上にあり──ソラブもまた

同じ土の上に高貴な死の姿を横たえている。

 

 

そして、最後にソラブが槍を抜き、「傷がもたらす避けることのできない不安」から楽になったとき、

 

        彼の冷たく白い脇腹から

真っ赤なものが迸りでて、くすんだ色でにじみ、

土手の上で子供たちが集めた新鮮な

白いスミレを染めていくようだった

子供たちはせき立てる子守りの呼びかけで

太陽を逃れて屋内に入ったのだが・・・

 

 

 こうした非好戦的な要素が、ここでの戦争のモチーフを根本的に変化させており、それと同時に「エトナ山のエンペドクレス」で明らかに表明されていた自己破壊のモチーフが、父親の名が原因で犠牲になった息子という劇的なアイロニーによって変容している。そして、ミルトンの正義の怒りとは対照的に、アーノルドの姿勢が文学史の曲線の<次の>段階の方にいかに近しいかを我々は認める。それがペーターの審美主義に、また、父親の問題がオスカー・ワイルドの審美主義においていかに思いもかけないように変容するかを我々は見る。