ケネス・バーク『動機の修辞学』 8

.. パーソナリティ・タイプにおける「悲劇」の形

 

 死や悲劇的終幕との関わりにおいて本質を定義することの背後に普遍的に感じられる文法の原則があるとするなら、アンケート調査がある種宗教的な崇拝の対象となっている我々の擬似科学において、「悲劇」の範疇を体系化したら「パーソナリティ・タイプ」の正確な分類に近いものができるかもしれない。確かに、例えば、暴力によって自らの生を終わらせることを選択する人間は、血管を切り温かな風呂のなかで出血死するローマ後期の人間とは異なる。そして、ミルトンがアーノルドと違うように、ミルトンのサムソンの最後はアーノルドのエンペドクレスの最後とは異なる。

 

 しかし、恐らく、こうした分類を最も一般的な形で行おうとするなら、その定義を<説話上>のものに留めておくとしても、我々の想定した悲劇のカテゴリー化に努める人物は、人間の終りについての問題を大幅に拡げるべきである。詩人の一団を雇うべきであろう。そして、我が市民たちがなぜ様々な既存の製品や「加工品」(限定されてはいるが限りなく続く終りのあり方)を強く望んでいるかについて熱心に想像力を働かせるのではなく、平均的中産階級の市民では、それぞれ異なった様にではあるが、なぜ世界そのものが終わると考えられているのか充分に理解するよう指令を下すべきである。確かに、「轟音ではなくすすり泣き」で世界が終わると予測する人物と、惑星が内からの爆発によってばらばらに吹き飛ぶような凄まじい大災害を怖れる人物の性格を隔てるものはさほど大きくないように思える。あるいは、中世の燃えさかる火の形象と、現代の多くの科学者たちが好む青白き「熱力学的死」、エントロピーの原則によれば、物質のもつ力は最後には全般的で均一な不活性に行きつくに違いないという、そうした死と比較してもよい。宇宙を経巡ってきた致命的なガスがひそかに地球を覆うと考える者は、巨大な星の衝突という考えにとりつかれた者や、太陽が突然爆発し、その新たな活動で海王星冥王星さえ焼きつくされることを期待する者とはまったく異なるだろう。こうした発言は、同時に自らを分類することでもある。「場面−行為比率」※1によって、人は周囲の状況のもつ性格を別のものに翻訳することで同一化することができるからである。かくして、より大きな秩序への転換、自身の個人的な終りから世界の終りに考えを移すことは、個人の性格を描くことをもくろみながら、より大きな響きと視野とを得、個的な狭い観点を越えることを可能にするだろう。

 

 恐らく、ここでの我々の企ては曖昧に過ぎよう。ただ、民族分類学の「新悲劇」学派の遠縁であり、様々なつぎはぎによって生れた植物の差異を分類するある種の現代生態学者であるくらいのことは主張できるだろう(こうした科学には、恐らく、今日悲劇を理解するときに通常曖昧にされる純粋に<サディスティック>なモチーフの痕跡があるだろうが)。

 

※1『動機の文法』(New York:Prentice-Hall,1945)特に7−9ページを参照。