ブラッドリー『仮象と実在』 126
...[個別性と完全性は単に否定的なのだろうか]
続く章においても、私は同様の議論を辿っていくだろう。我々の宇宙の体系のなかでその場所から外れていくようななにかが存在するかどうかを調べていくことになる。そして、突出し、戦いを起こし、不調和を導き入れるようなものが存在しないと認められたとき、我々の目的な達成されたことになろう。しかし、ここで、個別性と完全性の観念について少し述べておこう。
こうした性格には不調和と矛盾の否定が含まれ、その肯定的な側面については疑問が生じるかもしれない。それらは実際のところ、実定的だろうか。それを叙述するとき、我々は肯定するだろうか、それとも否定するだけだろうか。それらの観念が単に否定的なものだと主張できるだろうか。我々に反対して、実在とはあからさまな非現象であり、統一とはあらわな多数性の否定だと主張されるかもしれない。同じように、個別性とは、不調和と散逸が実を結ばず、不在であることだと取られるかもしれない。また、完璧性とは、我々が更に先へと進むよう駆り立てられるのを否定するだけのものであるか、或は不安や苦痛の不首尾を意味するに過ぎないかもしれない。そうした疑いは、既に回答を手にしてると私は思うが、もう一度その主要な間違いを指摘しよう。
第一に、単なる否定は無意味である(138頁)。否定することは、肯定的な仮定に基づかなければ、まったく不可能である。否定だけの観念は、もしそれを手にすることができたとしても、項のない関係となるだろう。それゆえ、我々が否定に言及する場合には、なんらかの肯定的な基盤がなければならない。第二に、にもかかわらず、否定されたものは、絶対を何らかの形で叙述していることを思い起さねばならない。実際、そのことのために、我々はそれを個別的なもの、完全なものと呼ぶのである。
1.まず、少なくも、肯定の観念が矛盾や不安定の否定を助けるものであることは自明である。存在は、もしその語を限定された意味合いで用いるならば、実定的に定義されうるものではない。最も一般的な意味における経験ではそれは同じであろう。また、厳密な意味で言うなら、それは実在とは異なる。(正確な意味での)実在は存在と内容との区別に先立ち、そうした分離は克服されている。他方、(正確な意味での)存在は、直接的で、区別以下の次元にある。もっともこうした言葉を常にそうした限定した意味で使っているわけではないが。いずれにしろ、一般的な経験的な意味において、存在は個別性や完全性の基盤にある。そして、少なくともその限りにおいて、実定的であるに違いない。
2.第二に、いずれも、それらが排除するものによって、実定的に決定される。多様性という側面は個別性の本質に属し、そこに含まれると肯定的に言える。統一は、自律的なものであろうとし、孤立を維持しようとする限りにおいて、多様性を排除する。個別性は、この明らかな対立が、その財産をすべてもってより豊かな全体へと帰還することである。詳細においてそれがいかに成し遂げられるかについては、我々はそれを知らない、と私は繰り返すことになる。にもかかわらず、我々はそうした肯定的な統合の観念を形成することが可能である(第十四章と第二十七章)。感じは直接的全体の低次における不完全な例を我々に与える。それとともに、排除による限定の観念と助けとなる未知の諸性質の観念とを一緒にすれば――我々は個別性に到達する。否定に依存しているにもかかわらず、こうした総合は肯定的である。
別なやり方で、同じような考え方は完全性についてもあてはまる。それは不安定や苦痛に満ちた闘争のない単なる空白の存在を意味しない。それは快にも伴う観念と存在の一致を意味する。さて、快楽が続く限り、それが否定的でないのは確かである。しかし、快楽は完全性の唯一の実定的要素ではない。不安定とせめぎ合い、事実と観念との対立、目的に向けての運動――それらの特徴も完成した全体の外にあるものではない。というのも、闘争を生みだすあらゆる内容がそこに帰し、完全性において弱まることなく残るからである。「なんであるか」と「それであること」との疎隔なしに存在の観念は叙述されるのであるから――存在は敵意ある対立のすべてを有すると同時に、そうした争いによってより豊かになる――それは肯定的な観念である。その詳細においては確かではないが、大まかな輪郭は理解できる。