ブラッドリー『仮象と実在』 34

      (活動性と受動性は互いに含み合うが、不整合である。)

 

 受動性と能動性の問題に戻ろう。なにものもきっかけがなければ能動的ではあり得ず、能動的なものはきっかけがある限り受動的であるのは確かである。また、きっかけは因果の過程に入るので--事物はそのままにしておいたら決してその過程に入らない--原因から変化を被る。それ故、その能動性において受動的である。原因がAで、きっかけがBだとすると、結果をその本性のあらわれと見るか、外から持ちこまれた属性によるものとするかで能動的にも受動的にもなる。

 

 ここで我々がどちらの見方をも消滅させるような事例を持ちだすのも当然だろう。以前と同じようにAとBが一つの過程に入ったと仮定し、その結果をACBと呼ぶことにしよう。Aは変化を被り、Bもまたそうだろう。それぞれが他方に変化を産み出したと言える。しかし、Aの本性が以前にはAcbであり、Bの本性が以前にはBcaだというなら、我々は中断を余儀なくされる。我々が用いている観念は不適切で、我々を混乱させるだけである。AとBにとってばかげたことである。もし私が将来そうである以外のなにものでもないなら、変化を被るとはどういうことだろうか。もっともよくいって見当違いであり、我々はその観点をとることはできない。

 

 もう一つの問題に移ると、我々が到達した結論では、あるものがそれ自体で能動的である可能性は排除されることになる。ここである区別をしなければならない。もし事物がその本性において多様なものではない、または、その多様性は時間において変化しないというなら、それは能動的であることが不可能だろう。実際には、この観念は自己矛盾している。また、あるものが全体として能動的だとも言えない。というのもその本性のある部分においてきっかけの助けがなければ変化が含まれ得ないからである。私はこれ以上この点について論じないことにしよう、というのも、混乱や先入見以外を認められないからである。能動性が限定を含み、それ以外では意味をもたないことは明らかである。他方、当然のことではあるが、諸要素の多様性があり、時間における変化のあるところでは、能動性がある。それらの要素の部分が他のものから変化を被り、他のものへ変化を産み出しているのだろう。実際には、あるものがその内部で自分の力によって変化をもたらすかどうかという問題は、少なくとも、あるものということでなにを意味しているかなんらかの考えがない限り、まったく見当はずれに思える。そして、我々の探求は、その限りにおいて、どんな意味をもつこともないだろう。あたかも何一つ動物について理解するところがないのに雌雄同体について調べるようなものである。実際、AとBが単一の過程で結びついているという点に戻り、それらが双方ともある一つのものの部分であるか、それぞれが変化の全課程を含んでいるかを調べてみても、恐らくどんな答えも得られないだろう。そうした観念を適用する前に、観念を改善するように勧められるのが落ちであろう。

 

 この点までの我々の結論は、おおよそ次のようになる。活動性は、その観念がどのように使われようが、不整合の固まりである。まず、前章の矛盾で穴だらけにされていて、それから自由になれないのであれば、仮象の咎を受けなければならない。我々の見る限り、その特殊性によっても事態がよりよくなるとは思えない。なにかの活動性とは、我々が選んだ見方によってそうあり、またなる。というのも、結果として生じる内的な性質なしには、活動性は意味をもたないからである。もしその性質がそこになく、事物における実在でないなら、その事物は本当に活動的だろうか。しかし、この疑問を自らに問い、偽りのたとえ以上のものを出そうとするなら、そこには無か、我々を喜ばせ、楽しませる観念しか見いだせない。そして、その観念は、我々があえて事物に配そうとはしない観念であり、どう属させていいのかわからないものである。この種の混乱は実在に属するものではあり得ない。

 

 この章を通じて、私は活動についてのある種の見方を無視した。この観点によれば、我々の議論と同じく、活動が支持できないことが認められる。そして、我々が実在の事実に触れてさえいないとつけ加えるのである。その事実とは、自己の活動であり、自己以外にこの語を適用することは比喩でしかない。この見解の問題については、実在について論じるときに戻ることにしよう。