ブラッドリー『仮象と実在』 35

  第八章 事物

 

      (これまでの結果は事物を破壊する。)

 この先に進む前に、都合がいいのでこの地点で一時中断しよう。読者は、事物ということで理解されるもののうち我々に残されたものがなにかあるのか自ら問うておられるかもしれない。実際のところ、「事物」という語を使うとき、一般的に理解されているのがなんなのか言うことは難しい。しかし、それがどのようなものであろうと、いまでは掘り崩され、破壊されているように思える。我々は一般的に事物がある種の独立性をもち、それ自身において存在する権利を持ち、単なる属性とは扱わない、と私は仮定している。しかし、我々の観念は通常明快ではない。恐らく、虹は事物ではないだろうが、滝はそうであり、閃光は疑わしい立場にある。更に、我々の多くは大胆にも、事物が、とりあえずは空間において存在しなければならないと主張しているが、これに疑問を投げかけ、納得ができないとする者もいるのである。

 

 我々は第一性質の助けを借りて観念を再構築しようとする試みが行き詰まるのを既に見た。そして、そのとき以来、我々が達する結論は、事物を内側と外側から破壊するように思われる。もし、実体と属性の、性質と関係とのつながりが擁護し得ないのなら、もし、空間と時間の形式が矛盾だらけであることが明らかになったのなら、最後に、もし、因果関係と活動が不整合に不整合を積み重ねるだけのものならば、--一言で言えば、これらがすべて実在の属性ではないなら--なにが残されているだろうか。もし事物が存在するというなら、どこに、どうやって存在するのか。そして、この二つの疑問に答えられないなら、我々は事物が仮象に過ぎないという結論を余儀なくされるように思える。このことについて私は二、三のことをつけ加えたいと思うが、それはこの結論を支持するためというより、可能な限り問題を平易なものにするためである。