ブラッドリー『仮象と実在』 138
.. 第二十二章 自然
...[自然――その我々にとっての意味と起源。]
自然という語は、もちろん、一つ以上の意味がある。私はここでは、物理的な世界というだけの意味で、純粋な物理学の対象であり、精神の外側にあらわれるものとしてこの語を用いるだろう。心的なものすべてを引き離したとき、残りの存在が自然となろう。単なる物体或は拡がりであり、心的でない限りにおいて、延長と直接に結びつき、伴う属性である。この世界は、我々各自の心的歴史においては、存在をもっていなかったことを我々はときに忘れる。延長の心理学的起源に関してどのような観点をとるにしろ、結果は同じことになろう。我々の感じとは異なる事物としての外的世界の分離が始まりさえしないときに時間は存在した。物理世界は、独立して存在するにしろしないにしろ、我々各人にとって全実在からの一つの抽象である。我々がつくりあげるこの実在、この分離の発達は当然時間を必要とする。しかし、私はこの問題をここでこれ以上するつもりはない。(1)
そして、我々すべてが物体という観念を獲得する時期が来る。我々が常に、或は習慣的にでさえ、外的世界を感情すべてとは独立に持続するものと見なすと私は言っているわけではない。しかし、少なくともある種の目的のために、我々は一次性質と二次性質の双方から成り立つ世界の概念を得る。この世界は、誰の内的生命とも独立しないものとして印象される。我々はそれをそこに存在するもの、そこに関わるすべての魂にとって同じであるものと捉える。諸器官を備えた我々の身体は、あるがままのものを、身体がなくとも存在するものとして伝える器具であり媒体である。あらゆる自己が取り除かれても、物理的現実はそのまま堅固にあり続けるという観念に我々はなんの難点も見いださない。ごく普通の人間にとって、こうした仮定は様々な理由によっていかにそれが心楽しまないものであろうと、可能なことは明らかである。その仮定が取るに足らぬナンセンスであり、常識と呼ぶものと相反するとして排するのも確かである。
そして、反省を進める人間は古くからの疑念と反論の道、解決や妥協が無益な試みとなるような場に入り込む。というのも、一般的な人間にとって自然とは物理学者の自然ではないからである。物理学者自身も、専門分野以外では、世界を習慣的に、実際にはあり得ないと信じざるを得ないようなものとして捉えている。しかし、二次性質と一次性質についての第一部の議論を思い起こす必要はないだろう。我々はそこで、両者を同一平面に置くことの困難、それぞれを別々にして実在を造りあげることの不可能を示そうとした。物理的自然の不運なる支持者は、先に見えない当惑から盲目さによってしか逃れるすべはない。彼は、自分の知るすべては自らの有機的組織の作用であり、有機的組織とはそうした作用以外のなにものでもないと結論せざるを得ない。つまり、物理的事物の状態以外に物理的事物は存在せず、結局のところ事物はその状態なのだとなろう(そう論じられることもありうる)。自然をこの観点から考えることは有益であろう。
*1:(1)更に踏み込んだ意見は『マインド』47号(第七巻)を見よ。