ケネス・バーク『動機の修辞学』 17

.. 科学の二重の可能性

 

 しかし、ここはいくら注意してもしすぎることはない。宗教、政治、経済は、周知のように面倒な問題であり、今日の多くの人間にとって、応用科学の崇拝はそれらを一つにまとめる原動力となっている。このことを明らかにするのは痛みを感じる。幾人かの科学者がファシスト国家に同調したからといって、科学がこうした有害な同一化を<しなければならない>と言いたいわけでは全く<ない>。例えば、合衆国では、アメリカ科学者同盟が原子力の戦争利用と国家防衛の考えとを切り離すことを緊急に求めている。同盟は、1947年9月1日、対日戦勝記念、二年目の宣言で次のように主張した。

 

 多くの人は起こりうる戦争における科学の助けを当然と見なしているし、国家の安全についてもそうである。議会でもそうしたことを聞く。原子力の任務についてさえそうしたことが聞かれる。我々は、国家の安全が、軍備や起こりうる戦争に対する科学の貢献によっては保証され得ないと主張する。

 

 

人間が善意をもつのであれば、不吉な同一化を打ち破ろうとする多大な努力が常に期待できるし、特殊分野の知識によって間違いを認めることも可能である。

 

 不運なことには、こうした限られた善意では十分ではない。同じ宣言はこう続く。「我々の政府は原子力エネルギーに関して、国連での適切な方針を支持している」と。だが、我々の提案する基準は、他の国が秘密裡に実験を続けて故意に条約に違反しないかぎり、合衆国がこの分野で永久に優位を保つことを保証する、と言ったソヴィエト使節の異議の方がより正当性があるように思える。

 

 合衆国原子力委員会(1947年9月10日)の前に行われた演説で、ソヴィエト代表グロムイコは同じ逆説に行き着いた。合衆国の提案は、「所有権」を<国際的な>支配機関を与えることになると、彼は攻撃した。この協定は国家主権の原則に矛盾することになろうと強く主張された。かくして、<社会主義者>の代表が国境に所有を<制限>するよう論じ、世界の最も大きな<資本主義>国は<統括的な>政体による所有を論じていたわけである。<表面的に見れば>、資本主義者の提案は、ソ連の立場よりも社会主義的解決の理想により近いように思われる。

 

 しかしながら、合衆国の法人経営や、どこの政党の歴史にでも十分な証拠があるが、ある資産の<現実の支配>はその<名義上の所有>とは異なる。明らかに、原子力開発の権利と資源を割り当てる<現実の支配>は、国際的な所有が<虚構>であるにしても、<事実上の>所有がもつ利点をすべてもつことができる。<支配>が存在すれば、所有そのものは<虚構>であるにしても、所有の<実際の働き>がある。非常に<特殊な>主張が<普遍的な>権利の名のもとに守られているなら、確かに修辞学にとってなんら新しいことではなかろう。ソヴィエト使節は、少なくとも、そうした可能性を<間違いなく>避けられる尺度を要求したことにおいて正しく、それは新聞に発表された科学者たちの宣言では考えられていなかった。そこに我々の提案にある「策略」のヒントがあらわれており、議会が国際的な原子爆弾の支配に同意するかどうか強い疑念の存在するときに、ロシア人を国際的な支配において立ち後れさせようとする策略である。

 

 専門の科学外では、原子物理学とは明らかに関係のない同一化に巻き込まれるから、心理学的考察はあるとしても、常に微々たるものである。生命のない事物を叩き壊す権威である科学者たちのまことに見事な言葉が人間の空想をとらえて、それを人間関係の領域に移し替えられるのではないかと考える皮肉な状況においてごまかしの可能性が生じる。同じように「非人称的」だとしても、純粋に専門的な害虫駆除から純粋に専門的な人間の爆破毒殺は偉大な一歩ではない。党派的な分裂(階級、人種、国、等々の)が同一化と乖離のねじれた混合をつくりだし、スケープゴートを生みだす限り、こうした誘因は働き続ける。実際のところ、すべての人間がより大きな同一化に加わることを求める「世界的な」状況そのものが、人間の争いの範囲を広げ、分裂への刺激を増すのである。我々とは大きく異なった環境にいる人々に十分共感できるだけの、豊かな人間性と内発的な詩に裏打ちされた修辞的努力を続けることが必要だろう。つけ加えれば、その正反対の努力をあおるような国際的敵対関係があり、ある種の発言は、その分裂傾向を強調するだけで自らの語り口を容易に「力強い」ものとし、簡素な科学の理想が予期せぬ社会的文脈に放たれることでいかに歪曲されるかが見て取れるのである。

 

 どれだけ心からのものであっても、科学者の善意では十分ではない。父親が小さな子供をテーブルの上に乗せ、守るように手を広げ「飛べ」と言うジョークがある。信用した子供は飛ぶ。捕まえる代わりに父親は身を引き、床に落ちるに任せる。子供は、身体的に、そして信頼を裏切られたことに傷つく。父親が理解させようとした教えはこうである。「お前にはいい教訓になっただろう。決して誰も信用するな、例え自分の父親でもだ」と。科学の擁護者が、単に称揚する代わりに、このように教えてくれれば、過去の宗教批判でそうだったように、科学批判においても「科学的」になるわけで、真に警鐘を鳴らすものとして歓迎できるのである。

 

 要約すると、

 

 (1)記録から、我々はファシズムのもとで科学が邪悪になったことを知っている。(2)我々の社会においてもファシスト的動機づけが高い割合で存在すると繰り返し警告されている。(3)そうであるなら、我々の社会において、邪悪な科学への強い衝動が存在しないわけがあろうか。悪のモチーフは、大衆的、難解な芸術双方で既に多くあらわれており、今日の実験科学者の多くに課せられた秘密主義が、彼らの「自立的な」活動に「陰謀的な」モチーフをつけ加えている。過去においては、純粋にヒューマニスティックな観点から見て、科学の「包み隠しのなさ」は高貴な態度であった。しかし、科学的発達を主に「起こりうる戦争」に備えるものと位置づけることは、科学において本質的な道徳的要素を危険にさらし、<普遍的透明さ>の基準を、分裂を引き起こす<陰謀>の要求と入れ替えるのである。こうした状況が行き渡っている限り、科学は健全さを保ち、<光>のもとに身をさらすための一つの支えを失う。この意味で、科学者は「自律性」の目的を様々に排し、抵抗しなければならず、もしそれを受け入れるなら、悪魔の友人となる危険を冒すことになる。もちろん、科学的発見は常に戦争目的に使用される。しかし、科学的進歩<そのもの>が軍事的関心に主導されることは、動機づけの<比率を>途方もなく<変えてしまう>。善意の科学者は、専門分野の道徳ではもはや十分でないことに落ち着かない気分になるに違いない。リベラルの理想である自律性は、自分たちの役割の真の意味を自らに隠しおおせない限り、否定される。