ケネス・バーク『動機の修辞学』 15
.. 科学の「自律性」
科学は、単なる道具(媒体)としては、場面、行為、行為者、目的の性質を取り、同一化すると思われる。欠陥のある政治構造が人間関係を歪めるのであれば、同様に科学も歪められると予想するのは理にかなったことであろう。教会の擁護者でさえ、腐敗した時代には、聖職者のなかにも腐敗が存在することは認めるだろう。それは、専門家の技術的訓練が、大量虐殺に寄与し、国家社会主義ドイツの強制収容所の苦しみが実験から産みだされたことに対応する。それゆえ、我々の社会に同じような誘因が存在する限り(芸術の不吉な形象が証言するように)、科学をめぐる状況にも同じような動機が潜んでいると言えないだろうか(ただし、社会的、経済的条件がさほど厳格でない我々の社会では、科学の割合は抑えられ、邪悪な政治的動機自体も押さえられてはいるが)。リベラルな主義者は、苦痛を与える不必要な動物実験の背後にサディスティックな動機が潜んでいると言うだけで憤慨し抵抗する。ヒットラー主義の科学が生みだす恐怖に言及し、我々の社会にあるヒットラー的思考に警鐘を鳴らす人物が、自身の前提を追究され、我が専門家にも同様の誘因が探られるとなると辱められることとなろう。
この不安には共感できる。通常、リベラルはこうした可能性を考えることを嫌がり、というのも、彼にとって、応用化学は、どう言おうが、単なる道具や方法ではないからである。<善>にして<絶対>であり、価値を基礎づけるという哲学的な<神>の働きを遠回しに授けられている。かくして、彼の考えは、科学は単なる方法であり、権力の共同作業者であるという表向きの主張と、科学は神のような存在で、本来的に<良き>力であるという隠れた主張の間で曖昧に揺れ動いている。明らかに、科学技術を応用する純粋に世俗的な権力は、端的に「善」であることはなく、様々な動機と同一化し、それが良い、悪い、あるいは価値判断に無関心であるかどうかは、その使用法、文脈に応じて動機や行動に意味を与える倫理的姿勢に依存している。
表面上はまったく世俗的なもののうちに神学的な<機能>を密輸入する秘かな同一化は、リベラルの原理に特徴的な職業上の自律性を秘密裏に補強できるが、そうした原理自体、実際的専門的な仕事は道徳性の土壌たるに十分なのだといううぶなまでにプラグマティックな考えによって補強されている。もし技術専門家が化学的、細菌学的、原子力破壊の新たな力を完成する仕事にのみ帰せられるなら、<技術専門家としての>道徳はできるかぎり効果的に仕事をやり遂げることによってのみ得られる。新たな力がなにを意味するのか、感情的にも知的にも支配できない社会的文脈に解き放たれ、<専門>が<職業的殺人>である人間に引き渡される仕儀に立ち至ろうと——いかにそれが家庭の父親として、国や世界の一市民として大きな不安を与えるものだろうと、専門家としては、端的に言って、「知ったことではない」。近年の資本家のリベラリズムのもとで、極度の分業が規準を消失させ、バベルの状態を理想としている状況では、真のリベラルは、同一化への修辞的関心に敵意をもつに違いなく、それゆえ、専門分野の原理を、その専門に固有の動機とだけ見なして額面通りに受けとることができない。それは専門分野<だけに>に固有の動機<であって>、<より広い動機の文脈に関わる>専門性のものではない。
要するに、学問上、「自律性」の検証で専門家に必要なのは、仕事で使う材料の客観的抵抗だけである。リベラルの規範はルソーが『エミール』で述べている。原理の強制は<事物>の本性から来るもので、権威や命令から来るのではない。だが、否応なしに、科学は同一化する政治的、社会的運動の道徳的性質を取ることになる。それゆえ、リベラルな科学理論には新たな不安、危機が存在する。『道徳の系譜学』でニーチェは同じ問題に厳しく取り組んだが、強情にも、道徳に<対立する>「自律性」を称揚した。現代の政治的権威主義は、以前の神権主義のように、自律的な専門分野を包括的な教義に従属させようとするだろう。「同一化」という修辞的概念は、こうした空疎な行きすぎを正当化しはしない。しかし、専門家としての道徳性で市民としての道徳義務を果すことはできないという事実を明らかにする。二つの役割が争う限り、邪悪な利害に与る専門性はそれ自身邪悪なものとなるだろう。