ケネス・バーク『動機の修辞学』 35

.. 「観念」の優先

 

 「階級の修辞」には、コールリッジが思い描いた「一次的」想像力と「二次的」想像力の区別に似た異なる同一化の種類が含まれている。

 

 パブロフが「条件反射」の実験で研究した類の機械的な連合がある。観念とイメージとの、原因と一般的原則との単なる連合は「機械的」と言える。トントンと<音を出す>ことで、釘を打つ大工の真似をする子供の行動にはこうした連合がある。

 

 ある秩序の原理が他の秩序に移されるときにより有機的な種類の連合が生じる。ここで思い浮かぶのは、イデオロジストの歴史についての観点は、諸観念の専門家としての彼の本性からきている、というマルクス主義者の意見である。ベーコンも、ほとんど適用の仕方が逆であるが、「洞窟の偶像」でほぼ同じことを考えている。彼が言うには、科学の専門家が「哲学を始めたり、一般的性格について考え始めると」、「以前から頭を占めていた思いによってそれを歪曲したり色づけたりする」傾向がある。かくして、

 

化学者は、・・・炉を使った僅かな材料による僅かな実験によって空想的な哲学を組み立てる。ギルバートもまた、天然磁石の研究と観察に労を費やしたあと、お気に入りの主題にあった体系を打ち立てることに進んだのだった。

 

 

ジョン・デューイは、このある領域から別の領域への諸原理の「想像的」転移を指して、「職業的精神病」という言葉を好んで使っている。

 

 こうした転倒の最も適切な例は、『メトセラに帰れ』のジョージ・バーナード・ショー自身による序文にある。彼は専門の劇作家としての諸原理を考えていくことで、弁証法の原理を発見することになった。それから自然を見て、自然の弁証法が劇作家の弁証法とのアナロジーに従っていると考える。つまりこうである。彼は劇作家としての経験から、アナロジーを発展させ、「創造的」進化の観点からダーウィン的な進化を退ける。そして、こう翻訳された自然から、劇芸術に関する自分の見方が引き出されていると主張する。自然を劇的に解釈することによって、彼はそこから劇を「演繹する」ことができる。劇の「第一原理」あるいは原則は、かくして、一度は劇に固有の言葉によって、一度は、科学的に見える自然進化の議論を装った、神話的根拠や「過去」、イデオロギー的「前史」の言葉で二度語られることになる。自然を語る彼の言葉は劇作家であることからきているのに、別の道筋を通り、自然から劇が発しているかのように見せることができるのである。

 

 ヴェブレンの『有閑階級の理論』はこうした区別にどう当てはまるのだろうか。彼が明らかにした同一化は、一見、より偶然に近いと思われるときがある。人々があることに専念し、なにかを得たいと思うのは、単にそれらがたまたまあこがれの身分のしるしとなっていたからである。その反対が同じ身分のしるしであったら、同じ人々がまったく反対のことをするだろうことは想像できる。

 

 同一化がより深く想像的だと思える場合もある。ベーコンは、洞窟の偶像が「各個人の、精神的肉体的素質、そしてまた教育、習慣、偶然によって生じる」と言った。そして、ヴェブレンが「有閑階級」の基本的動機とした「捕食」本能は、自然な素質に基づいてはいるが、「教育、習慣、偶然」によって鍛えられた偶像と言えよう。「偶然」には、もちろん、交通信号に対するほとんど自動的な反応も含まれる。しかし、自然な素質が生の諸条件によって選択され、発達させられ、訓練されるという考えには、あらゆる種類の表現が拡がる中心的な核、あるいは原理が含まれている。例えば、「捕食的な」芸術は「捕食的な」仕事の単なるを模倣によって形成されることはなかろう。むしろ、芸術は芸術に固有の仕方で「捕食的」であり、仕事は仕事に固有な仕方で「捕食的」なのだろう。「捕食原理」は一般的である。しかし、その表現は、文化活動のそれぞれに特殊な原理によって形成される。

 

 異なった領域が互いのものを借りあい、共通の中心からの特殊な放射でしかないとすると、ヴェヴレンから遙か離れることとなる問題に巻きこまれていると気づくことになろう。しかし、少なくとも三つの可能な体制が認められる。(1)偶然、機械的連合、記号としての記号に対応する領域があり、幼児期に始まるという意味で「魔術的」である。それはカーライルの「衣装」による華美と関連しており、子供は職業上の論理を理解する遙か以前にそうした外観に触れることで、階級差について「神秘的な」感覚を得る。(2)<アナロジー>による連合があり、そこではある体制から別の体制に用語が移行する。かくして、ビジネス文化は「価格」の美的な等価物としての仕事の「価値」に働きかけるかもしれない。あるいは、<芸術的>手段を<芸術的>目的に純粋に技術的に適用する、古典的な適合の基準(文章作法、to prepon)は、<社会的>優先順位についての支配的基準を侵犯する作品を反対するのに援用できよう。つまり、目的に対する手段の適用が適切であっても、目的そのものの適合性が手段の問題という装いのもと疑問視され、芸術表現の規範が社会的抑圧の規範として働くことがある。(3)異なる、特殊な表現があるにしても、<すべては、直接的な「相互的」貸し借りの必要がない同じ発生原理から生じており、それを体現している>(シュペングラーが常に体系化しようとしていた文化的本質の類である)。

 

 第三のものは、異なる道筋を通って、我々に再び「イデオロギー」をもたらす。というのも、批評に十分な眼識と表現力があれば、そうした統一の原理はある<観念>を用いて自らを表現するよう努めるだろうからである。それはより一般的であるために経済に「優先」するだろうし、経済活動は、他の表現様式と同じく、特殊な仕方で同じ性格をあらわしていることになろう。

 

 ブルジョアボヘミアンとの対立を考えてみよう(芸術的想像力を非理性と同一視する傾向を背景として、美学が実際的なものと直接に対立し、理性は財政的技術的有効性をもつものと考えられる)。この方向への第一歩は芸術を原始的魔術から解き放った部族間の交易に始まるだろう。金銭の根本的原理として精神的な力が信じられなくなり、金銭そのものとその精神病理だけになったとき、芸術は直接的ではなく、金銭という媒体による屈折を受けるようになった。

 

 しかしながら、金銭そのものは、金銭的ではないものの一般的弁証法過程の象徴である。シンボリスム特有の還元的、抽象的、代替的な側面がある。本質として他のイメージと絡みあう形象がある(例えば、フロイト守銭奴が「肛門的に」動機づけられていると記しているし、ジイドは『贋金づくり』で金銭と人間関係を対応させ、我々はしばしば金銭を「精神」の戯画だと考える)。しかし、形象との関係を越えた弁証法にその根はあり、その起源は同一視される言葉と同じくらい神秘的であり、しばしば<ロゴスとしての言葉>に同一視されることもある。最終的には、道徳的戦いや科学や哲学の秩序づけと同じように、階梯のしるしのもとにあり、修辞的に「天上の位階」に転換することができる。

 

 十九世紀に典型的な美学の教義は、我々が区別しようとした三種のすべての意味で金銭的であるように思える。かくして、部分的には、美の崇拝は社会的区別への象徴的な要求、ヴェブレンの言葉でいう「ねたましさ」の動機で分析することができる。ある部分では、「美的価値」が「金銭的価格」の「精神化された」等価物となり、美が金銭とアナロジカルに考えられることもある。(これは我々の第二のカテゴリーに当てはまるだろう。)第三のレベルはシェリーやフロイドのような異なった作家にあらわれているように思える。シェリーの無政府主義的な観念論は金銭的自由の「完成」であり、それを<内側から>越えるものである。同じように、マルクス主義の資本主義批判は、資本主義に固有のものであり、資本主義の動機に精通している者によってのみ発展させることができる。シェリーやマルクスは正統的な資本主義の動機から出発して弁証法のより広い領域に移り、そこでは金銭は限定したイメージでしかない。人間は、人間で<ある限り>シンボルを使う。この点からいうと、彼の「現実」はどの視点から見られるにしてもシンボルの霧を通してだと言える。基本的経済の厳しい現実でさえも(人間の精神に本質的な)シンボルの覆いを貫き通すには十分でない。ある人間はイメージを組織化しようとするかもしれないし、別の人間は観念に秩序をもたらそうとし、政治的商業的帝国の頂点に立つよう激励されていると感じる者もいるかもしれないが、そうした多様な行動様式から生じる状況がいかに異なっていても、それらすべての背後には純粋に象徴的な動機があり、というのもそれらすべてには「過剰生産」があるのである。

 

 このとき、ある限界内で許される「イデオロギー」を区別をすることは可能だろうか。つまり、イデオロギーを全面的に信用しないのではなく、制限を設けて有効に適用するようなマルクス主義批評を考えることができるだろうか。というのも、シンボルを使用する動物の器官である人間の精神はどんな<個別の>所有構造にも「優先し」、この意味においてシンボルの法則は経済的法則に優先するからである。シンボルから、人間は自ら創案したものを発展させる。では、どうしてそのシンボルとしての起源が隠されたままでいようか。なぜ単に<事物>というだけなく「観念」の<イメージ>でないことがあろうか。

 

 そして、なぜ我々は(マルクスによって疑われた意味における)「イデオロギー」とマルクス主義によるその転倒(「あらゆるイデオロギーにおいて、人間とその環境とはカメラ・オブスキュラでのように逆さまになる」)とを協力させることができないのだろうか。我々は融和しがたい対立を妥協させようとしているわけでも、二つの立場は観念的な対立で、真実は両者の中間にあると言おうというのでもない。むしろ、それぞれの立場に明確な働きを割り当てたいのである。それぞれがそれぞれの働きをすれば、これ以上の争いはなくなり、健康体の胃と肝臓のように共に働こう。

 

 ある経済状況では、それに対応する様々な考え方が存在するようになる。しかし、そうした、特殊と一般、双方の動機と複雑な関係をもった生活や思考の様式は、<諸原理>のレベルまで深めることが可能である。というのも、生活や思考の様式は「観念」の用語に還元することができ、「観念」はそれを捉えた者なら誰でもが具体化し、好きな行動によってあらわすことができるという意味で「創造的」だからである。観念や基本原理は文化の感覚的イメージを通じて得られるに違いない。そして、そうした散乱するイメージの原理を直感的につかみ取らない限り、その「観念」に関しては深く創造的であることはできない。ある文化を深く体現するには、そのしるしを真似するのではなく、そうしたしるしの<体制>の背後にある原理を真似する必要がある。