ケネス・バーク『歴史への姿勢』 73

... 権威シンボル Symbols of Authority

 

 正直なところ曖昧な語である。明確な境界をもって方向を指し示しているというより、なんらかの方向をもって指し示すこと自体をあらわそうとしている。支配者、法廷、議会、法律、教育者、警察、およびこうしたものと結びついた道徳的スローガンに対する我々の姿勢をひとまとめにしたものである。根本的には所有関係と結びついている。奪われた者でさえ、彼から奪い去った権威構造に「関与している」と感じる傾向にある。権威構造による教育政策がもたらす影響によって、奪われた者は、再所有の唯一の希望は彼から奪い去った構造への忠誠にあると感じることになる。

 

 権威的な所有関係は、いわば、仕事を取上げるか悲惨で低賃金の仕事を押しつけるかのどちらかである。仕事を得る、あるいはよりよい仕事を得るためには、権威において引き立てを得なければならない。こうした解決がすべての人間に与えられるわけではないことさえ知る必要がある――しかし、慢性に病的な状態にある構造において少なくともある地位を得ようと望む限り、支配的な権威構造に少なくとも「精神的に」関与することになるのである。権威構造への服従は<自然>であるという事実によって、こうした姿勢は更に促進されることになる。理想的な世界は、支配的な社会的基準(権威シンボルをいただいた)への服従が災厄なしに報われるようなものであろう。人は個人としての精神を全体の集団的パターンを参照にしながら形づくる。彼が「奪われた者」である限り、物質的な富を享受しているにしても、それができないのである。

 

 心からその配置の正当性を容認し、隔離的な姿勢の必要を認める限りにおいて、人は社会構造を「自分のものとする」。そうした忠誠に不服がある限り、物質的および精神的に奪われた者は苦しまねばならない。我々は物質的に奪われなかった者の喪失には憐れみを覚えるような風潮にはないかもしれない。しかし、歴史的過程を考えるときに、それを考慮に入れないとすると、批評家にとって貧弱な判断基準しかないことになろう。こうした精神的な収奪は、なぜ封建主義に物質的な「利害関係のあった」多くの人間がフランスの百科全書派の革命に与する著作に共感をもって接したかの理由を説明する。また、エンゲルスの綿工場から十分な収入を得ていたにもかかわらず、なぜマルクスが「反逆者」として振るまい続けることができたかを説明する。物質的利益だけを過度に強調することは、権威シンボルの忠誠への転換を誘導する膨大な仕事を冷ややかな眼で見させることになるかもしれない。実際、周縁的な階級(精神的には疎外されているが物質的には恵まれている)は、すべてを奪われた者は盲目だといった種類の考えをもちうる。すべてを奪われた者にとっては、事態は<あまりにも単純>であるように思え、それゆえ過度に単純な図式を描くことになる。そうした過度の単純化において、彼らは自分たちを組織化だけでなく、対立によって敵を組織化し――共にいた多くの者たちでさえ敵陣営に追いやるのである。問題は我々が諸処で論じた、権威とその拒絶の問題と結びついた否定主義的過程によって更に悪化する。

 

 文芸批評家としての我々の問題は、主題としての権威シンボルへの忠誠によって、技術的な批評と社会批評(プロパガンダ、教訓)とを統合することにある。それを出発点とし、そこから四方に「発散」していく。権威シンボルは根源的に所有関係と結びついているので、この出発点は自動的に我々を社会経済的批評へと導くことになる。「生活の手段」としての芸術作品はその基礎において権威構造との関わりにおいて形成されているので、我々は自動的に技術批評(作家の「戦術」)の領域に移ることになる。

 

 ジョン・デューイの教育理論の後継者たちは、「社会機能としての教育」と「教育機能としての社会」とを区別する。この用語に従って我々の立場を再確認すると、教育が社会機能であるときに社会は正常だと言うべきである。つまり、社会の原則や方向性が速やかに働き、教育は同じ原則や方向性を維持することができるよう若者の精神を導く。この順序が逆転し、デューイの後継者たちがこれを逆転しようとする限り、我々は「疎外され」、「収奪されている」。「社会」が「教育」の一機能だと言うことは、結局のところ、社会に行きわたっている原則や方向性が根本的に歪んでおり(社会はその正当性を奪われている)、教育がそれを作り直していかねばならないと言うことに等しい。

 

 教育者はある程度支配的な権威シンボルに敵対し、権威の別の根拠を見いださねばならないことになる。しかし、他方において、哲学者としてのデューイは拒絶の姿勢にある危険を理解していた。人はそれを「受け入れる」ことができるときに世界において「くつろげる」ことを知っていた。それゆえ、デューイは、あからさまな階級闘争の図式は疑っていたが、権威のあり方を変えるような教育理論を主張したのである。矛盾は、恐らく、あからさまな階級闘争の理論が素朴な社会に行きわたると、あらゆる種類の過剰な反応を引き起こす(「窮地に追い込まれる」の項で言ったように)という彼の理解の仕方から生じている。

 

 根本的な革命は、人間が権威を魔術として考えること(習慣によって承認される、王や両親に結びついた権威)から委任された権威という法廷弁論的な考え(いわば「貴族階級の民主化」から生じる)に転換したときに起こった。しかし、代理人に対する喜劇的批評(社会機能としての「人形」)が洗練された社会においては正当な場所を占めているにしても、代理化というたとえにあまりにも頼った出来事の図式化をしようとは思わない。

 

 言葉は人形ではない。単なる「委任された力」以上のものをもっている。それは命じる力をもつ――人形のアナロジーだけで考えようとする理論は、重要な問題を答えぬままに残すに違いない。

 

 次のように言える。

 

 もしある人間がなにかを持ち上げようと望み、その目的のために梃子を使ったとすると、単に梃子に「力を委任した」というのでは十分ではない。梃子も同様にそれ自体の性質をもっている。その「性格」は委任された働きと同一ではない。事実、金属では弱すぎて委任された働きをすることができないかもしれない。或は、梃子としては重すぎるかもしれない。結局、梃子は傀儡としての働きをすることを<拒む>ことになろう。

 

 同様に、言葉は公的な性質をもち、個人はその公的な所有に「関与する」。単に力を言葉に「委任する」ことはできない。言葉がその力を人に委任するといった方が真実(或は過度に単純化した誤り)であろう。人が言葉を使い、言葉が人を使う。

 

 特に、偉大な詩人の場合、議会の喩えが不十分であることは明らかである。詩人が「つくられるのではなく、生まれでる」ものである限り、彼は「慣習によって確立された権威」に従う。「支配者」としての詩人も、「臣下」としての言葉も「自然法」に従わねばならない。中世の虚構では、農奴階級も、貴族階級も、それぞれ自分たちの流儀に「従った」。同様のことは言葉の働きにも適用される――議会の喩えはそうした働きを曖昧にする。

 

 詩における「投票」は本質的に<非議会的な>ものである。別の言葉で言えば、詩人は「通常の、明かりをつけるほどの容易さで」最新の商業化された医学やインチキな薬を称讃する偉大で高貴な叙事詩を書くことに「身を投ずる」ことも考えられる。インチキ薬によって、しんどい運動からの解放を荘厳に描く高貴な叙事詩が考えられる。だらしなく寝そべっていさえすれば――好きなだけ薬を使い――思う存分食べたとしても――この薬を使用してさえいればすべてうまくいく。仕事への絶対的な献身からも自由になる。詩人はこの奇蹟を呼ぶ製品を称讃して偉大な叙事詩を書くことだろう(特に、プロモーターがかなりな謝礼と映画化権の5パーセントも用意していれば)。

 

 こうした大雑把な叙事詩は書かれ<得ない>。「考えのうえでなら」、喜んで書こうとする者は大勢いるだろう。しかし、実際にはできない。まさしく、言葉の権威が委任され得ないがゆえに、できないのである。

 

 つけ加えて言えば、言葉の権威が委任され得ないがゆえに、世界で実際に起きていることを学ぶためには「詩的交換」を見なければならない。通常の「議会的な」方法による現状判断は次のようなものである。歴史の進行を予言しようとする。「趨勢」を知ろうとする。そこで単純なアンケートを送りつける。そこにはこうある。

 

アメリカに必要だと思うのは 

  ファシズム

  共産主義

  個人事業

  宗教の再興

  原始主義

 

 送り先の住所は手に入れる。送られた者は回答を選び、最寄りのポストに入れ、回答は表にされる。送り先が「人口の正確な横断面」を示し、「恣意的な」ものでないなら(一言で言えば、「科学的な」ものであれば)、単純な足し算によってこの重要な問題についての「民衆の姿勢」を知ることができる。それに従って「歴史の趨勢」を測るわけである。

 

 実際のところ、こうした投票は(「投票」によってこの空虚で受動的な無作為の過程を意味するなら)<なにも>伝えはしない。未来は、実際には、<人々が歌うことのできるものを見いだすことによって>あらわにされる。※

 

 

*1

 

 精力的で独創的な職人をリストに加えることはどんな価値があるだろうか。また、コンサルタントをリストに加えることにはどんな価値が。そうした、人間の実際の能力をリスト化し、<心理学的な職業わけを完全に行なう質的な>検証によって、予言の材料を得ることになる。人々が「事業を手放したり」、無作為な決断(投票するときに「どちらにしようか」と自問するときのような決断)をすることができない領域において歴史は予見される。例えば、ドイツの先行きは、ドイツの最良の作家たちが彼らの力をヒトラーのために委任できないという事実に予見される。政府は命令を下し――喜んで命令を実行しようとする者もいる――しかし、「自然法」の命令(翻訳すると「歴史的必然性」)は別のやり方で支配する。詩人の言葉は傀儡ではなく行為である。言葉は詩人の働きであり、詩人は言葉の働きである。言葉は社会機能であり、詩人は社会機能である。

 

 「権力の委任」という議会の喩えは、言葉の分析に適切な「手がかり」を与えるに十分ではない。言葉が無計画である限りにおいては(性急なニュースのように)、言葉が「委任される」こともあり得よう。しかし、詩のように、集中されたものである限り、その本性は「独裁主義的」なのである。※

 

*2

*1:

※この制限は必要である。科学的な語彙というのは、精神における<未来の>行動の観念のある種の「源泉徴収」である。金融投資のように、結果の報酬を約束することで直接的な報酬を引きだす。征服者に対しては<屈辱を忍んで目的を達する>。まさしくこうした「精神化」(厳密な模倣による主張との相違)の結果、より「高い」レベルにおける数多くの強力な主張が可能になる(数学的シンボルはほとんど模倣的な内容がないことによって、大西洋を横断する定期船のような主張を力強く行なうことができる)。こうした約束の「代償」として与えられるのは活力であり、他の子供は遊んでいるのに熱心に勉強する子供が、結局は大きな会社の法律家になり、ビジネスにおいて<主張>できるのに対し、子供時代の遊びという「低いレベル」では大いに<主張>していた者が後には遊ぶ余裕すらないようなものである。或は、遊んでいた者の子供たちがゴルフクラブをもっているのに、慎んで勉強していた者がいまではグリーンの上で模倣による自己主張を行なっているかもしれない。同様に、模倣的なレベルでの主張を保持している原始的な部族は、金融と実験室の精神化において、「組織化された懐疑」への投資によって利益を得る西洋の国々の言うがままになり、共感的な踊りによる原始的な種類の主張は、錫や鉛の鉱山に彼らを送り込もうと決める西洋の帝国建設者に対抗することはできなかった。精神と身体との密接な相互関係に見られるような「生態学的均衡」は、一度源泉徴収による報酬が所有関係、科学的発明、警察力などによって具体化されてしまうと、資本主義の「効率性」によって、精神性と狂信との貧弱な関係に置き換わってしまう。

 

 

*2:※恐らく、我々は議会の喩えがどれ程異なった領域にまで及んでいるかを理解できていない。例えば、美学について「科学的に」扱おうとする学生は、「理想的な比率」を見いだそうとする。十もの異なった図で異なった比率を描き、「様々な地位にある」人々に好きなものを選んでもらう。そして、この比率についての単なる「受動的な投票」によって、価値のある知識を得ることができると期待するのである。こうした量的な効率性における最上の価値は、些細なことを熱意をもってできるということにある。