ケネス・バーク『歴史への姿勢』 72
... シンボルの合併 Symbolic Mergers
超越には隠れた「斟酌」が存在する――しかし、この要因が我々の言葉の背後にあって認めることが困難である。例えば、「すべては物質的だ」と言う男は、考えられる限りの保留を付しているかもしれない。また、「すべては精神的だ」という男にも別の保留事項があるかもしれない。観念論者が唯物論者に近づき、観念論者の意味合いでもって唯物論者の言葉を肯定するときに物議が生じる。「無神論」というシンボルのもと、ある者は社会的姿勢を認め、ある者は「神」のシンボルを認めるかもしれない。
シンボルが統合する密かな過程をより詳細に理解するためには、「隠喩分析」が必要とされる。例えば、ある男が「無神論」というシンボルを使い、その戦略的地点において、悪魔崇拝の<意味合い>をもつ形象をもってその思想を表現したなら、彼の用いるシンボルは、信仰者のもつ「神」のシンボルと言語的に等しいものでは<ない>ととることができる。他方、神のシンボルを分析に曝し、シンボルの持ち主を恐れさせるような暴露を行なうこともできる。「神」によって彼はなにか悪意に満ちたものを意味していると見いだすかもしれない。
シンボルは、符牒として「額面」によってあらわされるもの以上の内容をもつ容器である。言葉は、「実用的な」辞書の効率的な簡略化で示されるよりもずっと複雑で微妙な意味合いを含むことができる。すべての語には「シンボルの合併」が伴っている。かくして、ある人間が自分の全生活を仕事と統合したとき(社会的関係と個人的超越のすべての文脈が絡み合っている)、その動機を単に「金銭的な利益への横棒」と分析しようとするなら、実際に起こっていることを知るにはほど遠いことになろう。彼の仕事は「容器」となり、「カリスマ的」になっている。