ブラッドリー『仮象と実在』 26
(すべての諸条件にまで原因を拡大しても、完全なものとはなり得ない。)
因果関係を正当化しようとする我々の努力の唯一の意味のある帰結は、原因や結果を孤立化させることが不可能なことを示したことにあるように思える。擁護できる主張をしようとするなら、まず我々が述べたような結合を越えなければならない。原因Aは時間においてさかのぼるばかりでなく、横に広がってより多くの存在を巻き込むよう努めるのである。そこで我々の行きつく教義は、真の原因を見いだすためには、ある瞬間における世界の完全な状態を捉えねばならないというもので、その完全な状態は次の完全な状態へと移行する。つまり、いくつもの因果関係の糸には常にある背景の行動が含まれている。この背景という考えは、思慮分別があるなら、実際には不適切であることがわかる。実際には不適切だというのは、まったく根拠がないということではなく、しばしばそれが同一で、なんら特殊な差異を産み出さないからである。それ故、別々の原因は正当性のある抽象であり、実質的に認めうるだけの真実を含んでいる。しかし、我々が厳密な意味における真実を求めるなら、完全な世界の状態をもたなければならないだろう。それが原因となり、次の完全な状態が結果となることだろう。
この結論には多くの真理があるが、擁護できないことに変わりはない。原因をそれ自身を超えたものに分けるこの傾向は、因果関係では関係が本質的だとする限り満足させることはできない。このことは容易に納得されるよう。というのも、第一に、全体としての存在の完全な状態は、どの一瞬といえどまったく不可能だからである。どのような状態だろうと、その内容はそれ自体を超えて無限に後退する。そして、構成されているものの関係や性質は、たとえそれが一瞬に限られているにしても、それ自身に立ち返り、限りない消失に落ち込んでしまう。かくして、完全な状態が必要なのだとしても、それに到達することはできない。第二に、同じくらい致命的な異議が存在する。たとえもう一つの世界に先行するような自己構成する世界の条件を手に入れることができたとしても、二つの世界の関係は非合理的なものにとどまる。なにがしかのことを言うことにはなる。BがAの属性であるか、Aの系列にあるか、双方に関係があるかでなければならない。しかし、こうした、あるいはなにか別の場合であっても、我々は自分の主張を擁護することができるだろうか。これは古い難問であり、あるものにそれとは異なるなにかを帰すことがどうして正当化されるだろうか。「Bが後に続く」というのがAの本性でないなら、我々の叙述は正当化される。Aに本質的なら、まずそれをAから取り除くことを正当化する必要がある。次に、こうした不調和な性質のAが非実在的な仮象以上のものでありうるのかどうか示さねばならない。