卵のなかの世界--カール・テオドア・ドライヤー『奇跡』(1954年)

 

 

原作:カイ・ムンク

撮影:ヘニング・ベルツェン

音楽:ボウル・シーアベック

出演:ヘンリク・マルベル

   エミル・ハス・クリステンセン

   プレーベン・レーアドルフ・リュ

   ベアギンデ・フェダースピル

 

 モノクロ映画である。原題のOrdetは英語でいうとWordであり、内容的にいうと、大文字のTHE WORD、「はじめに言葉ありき」の言葉であり、つまりは神の御言葉であって、『奇跡』という邦題はネタバレも甚だしいのであるが、もともとネタバレを気にすることのない私にはどうでもいい話で、それに、言葉などシャボン玉のように軽く、脆弱な日本で『言葉』などと題されたら、映画に対してそぐわないだろうし、一個人がそこまで気を回さざるを得ないのは、我が国はさすがに言霊の幸う国なだけある。

 

 主な舞台となるのは、地方のそこそこ裕福な酪農家である。この地域に根ざした父親はすでに引退同然の生活を送っており、この父親の連れ合いは亡くなって久しいようである。この人物には三人の息子がおり、長男はすでに結婚し、二人に娘がおり、妻はほぼ臨月の状態にある。一家の中心となっているのはこの長男の家族であり、なかでも一家のそれぞれを仲介し、まとめ上げているのは長男の妻であるインゲルである。次男のヨハンネスは神学校で学んでいたが、なにが原因かは語られることはないが、気が変になり、聖書を引用して現代のキリストとして丘の上からおそらくは誰もいない空間に向けて説教を語るような日々を送っている。三男は仕立屋の娘と結婚したがっており、インゲルの口添えもあって父親の同意も得るのだが、仕立屋と父親のあいだには古くからの宗教的確執があるらしく、この相違は私などにはよく理解できないのだが、仕立屋の方はより厳正なピューリタニズムを守っているようで、自分たちと同じ宗教的立場をとるものとのあいだにしか娘の結婚は許せない、と話し合いが決裂に終わろうとするとき、出産を迎えたインゲルが危険な状態にあるという電話が自宅からかかってくる。急いで医者が呼ばれ、子供は念願の男の子であったものの、死産に終わったが、なんとかインゲルだけは助かった。だが、一家中感謝の気持ちで医者を送りだしたすぐ後に、インゲルはあっけなく死んでしまう。そんななかヨハンネスが姿を消し、村中のものが捜索するが、見つからない。そしてインゲルの葬儀の日、ヨハンネスが戻ってきて、もし確かな信仰と戻ってきて欲しいという愛情があるなら、神にインゲルの復活をなぜお願いしないのかと葬儀に集まった者に問いかける。

 

 脚本はドライヤーだが、ガイ・ムンクの原作は戯曲で、ドライヤーが映画監督としては駆け出しで、ジャーナリストの仕事も並行していたときに、劇評を書き、そのときから映画化を考えていたらしい。ガイ・ムンクはカリスマ的知識人で、その後、ナチス占領下のデンマークにおいて徹底的な抵抗を主張し、頭に三発の銃痕を残した死体として発見された。しかし、コメンタリーを書いているフィリップ・ホーンによると、ムンクの戯曲はいわゆるウェルメイドなものであったらしく、宗教的な議論は、現代的な物質主義と偽善的な敬虔さとをめぐるものだった。もっとも明瞭に異なっているのは、ヨハンネスの狂気が婚約者の死によってもたらされたことにあって、ヨハンネスは義理の姉であるインゲルの死を見ることによって、そのトラウマから解放されて、正気を取り戻すことになっている。そして、いわゆる奇跡は、未熟な検死によってもたらされたことになっている。つまり物語は「早すぎた埋葬」の一変種でしかなかったらしいのである。

 

 ところが、ドライヤーの映画は、その静寂と極端なカットの少なさで終始異様な雰囲気が立ちこめている。ヨハンネスはインゲルの葬儀の日に、理性的な口調を取り戻して帰ってくるが、その口調において障害者的な間延びのした以前の姿と異なりはするが、信仰といい、なぜ二千年近く前の奇跡を信じる者が、現在においては頭からそれを拒否するのだろうと語っている狂気のヨハンネスと一緒に神にお願いしようという葬儀の場面の正気のヨハンネスと本質的になにも変わっておらず、謎めいた媒介者の役にとどまっている。そして、異様な雰囲気は葬儀の場面、インゲルの死体を真ん中に家族と牧師や医者、心を入れ替えて娘の結婚を許そうと駆けつけた仕立屋の主人が集まるなか、ヨハンネスが入ってくるところまでいたると胸苦しいまでの緊張感に高まる。インゲルが入っている棺桶は水平ではなく、斜めに傾いており、あたかもインゲルが宙に浮いているかのように感じられ、その背後には窓ガラスが並んでいるのだが、外界は遮断され、空間は白によって覆われている。ピエロ・デロ・フランチェスカの祭壇画、「聖人と天使のいる聖母子を崇拝するフェデリコ・ダ・モンテフェルトロ」において天井から一本の糸によって吊された卵のなかに入り込んだかのような感情に包み込まれるのであって、悪魔に取り憑かれようが、死人が蘇ろうが珍しくもない映画において、こんな名づけようもない感情に溺れてしまうことはそれこそ『奇跡』といっても差し支えがないように思う。