小さな生――古今亭志ん生『おせつ徳三郎』

 

古今亭志ん生 名演大全集 28 富久/おせつ徳三郎(刀屋)

古今亭志ん生 名演大全集 28 富久/おせつ徳三郎(刀屋)

 

  八さん熊さん、ご隠居、与太郎、大家、棟梁、若旦那と落語には多くの典型となる人物が登場するが、数こそさほど多くないが、純情で一本気な若者というのもそのなかに数えられる。たとえば『紺屋高尾』とか同じような噺である『幾代餅』の職人、そしてこの噺の徳三郎がそうである。思いつめたら最後、思いを遂げるところまでいかねば我慢ができない。純真さにおいては『明烏』の若旦那を思わせもするが、彼は結局は籠絡され、数々の道楽者の一員になるまであと少しといってもいい。


 上下と分けられて演じられることが多く、それぞれ上は『花見小僧』、下は『刀屋』という題がついている。徳三郎はある大店の奉公人で、幼いときから奉公に入ったこともあって、店の娘であるおせつの身の回りの世話をすることが多かった。やがて二人とも成長し、いつしか将来の仲を言い交わすようになった。そんなことはまったく知らない店の主人は、いい年頃になってきた娘のために次々と縁談話をもってくるが、どんないい話をもってきてもおせつはいやだという一点張りである。

 

 主人もなにかおかしいと感じていたが、番頭によると徳三郎との仲がおかしいという。そこで、花見のときに供をした小僧を呼びだして、半年に一回のところを月一回の里帰りとお灸を飴と鞭にして、とうとう話を聞きだしてしまう。ここまでが『花見小僧』で、口止めをされている小僧がとんちんかんな答えをしたり、屁理屈で言い抜けようとするところに滑稽感がある。


 二人の仲を確信した主人は、いい加減な理由で徳三郎に暇を出し、強制的に祝言の話を進めてしまう。祝言の日、それを漏れ聞いた徳三郎は、あれほど固く将来を約束をしたのに、と思いつめて刀屋に駆け込む。おせつと婿とを斬り殺してしまおうというのだ。とにかく人を切るための刀をくれ、という徳三郎の様子をいぶかった刀屋の主人は、なにに使うか尋ねる。仕方なく徳三郎は、友人の話としてこれまでの経緯を語る。刀屋は刃物を持たせるよりはいいと思ったものか、川に身投げなさい、それを見たお嬢さんはああそこまで思ってくれていたのか、とあとを追って心中ということになるだろう、という。

 

 そんな話をしているときに、鳶の頭がせわしなく入ってきた。祝言の途中で逃げだしたおせつを探しているとのこと、それを聞いた徳三郎は店を飛びだしていった。そして、おせつと運良く出会うことができた。おせつを探す声に追われるように木場にさしかかり、この世では一緒になれないから、あの世で一緒になりましょう、と心中をすることになる。南無妙法蓮華経、と唱えて橋から飛び降りると、木場なだけに、川一面に浮かべてある木材の上に落ちただけだった、ああ、お材木(お題目)で助かった。


 フランスではオルガズムのことを「小さな死」というが、その名称がよりふさわしいのは落語のこうした部分だろう。助かった二人が、根負けした主人に夫婦とさせてもらえるかどうかはわからない。しかし、死を覚悟して飛び降りる瞬間の二人はまさに失墜のなかにおり、お材木(お題目)で助かったという最後の台詞は、駄洒落に過ぎないにしても、信心を諧謔化したなかにもその芯はしっかりと残っており、二人は、「小さな死」よりも「小さな生」を与えられたように感じたに違いない。