幻首と幻胴体――ポウ『ブラックウッド風の記事を書く作法』『ある苦境』

 

ポオ全集 3 詩・評論・書簡

ポオ全集 3 詩・評論・書簡

 

  ポウに「ブラックウッド風の記事を書く作法」という短篇がある。ブラックウッドは1817年に創刊されたイギリスの雑誌で、トマス・ド・クインシーも寄稿していた。この短篇のなかでも、『阿片常用者の告白』が「すばらしい、じつにすばらしい!――荘厳な想像力――深遠な哲学――鋭い省察――火のような激情に満ちみちている上に、断固として理解不可能なものでたっぷりわさびをきかしてあります。一片のフラマリともいうべきもので、読者はさも心よげに舌つづみをうったもんですて」(大橋健三郎訳)と紹介されている。フラマリとは、訳者の注によると、牛乳・卵・小麦粉などでつくった甘い食品だが、「たわごと」の意味ももっているという。

 

 「人類を、教化する、ための、フィラデルフィア、公認、交流、絶対、茶道、青年男女、純、文芸、世界、実験、書誌学、協会」の客員書記というとんでもない長い肩書きをもつサイキー・ジノービアという女性が、雑誌が刊行されているエディンバラに赴き、創刊者のブラックウッドに記事の書き方を教わる。

 

 ブラックウッド誌でもっともすぐれているのは、「怪奇もの」あるいは「激情もの」とも呼ばれている記事で、怪奇や激情はポオの小説の大きなテーマを成しているから、この短篇は、詩「大鴉」ができあがるまでを詳細に解きあかした「構成の原理」の散文版とも言えるかもしれない。もっとも、パロディ的、ナンセンス小説的に書かれている。

 

 とにかく、ブラックウッド氏の言うには、まず感覚を書きとめること、しかも誰も出くわしたことがない苦境に自ら落ちこんで、そこでの感覚を書くことが肝要である。さっそくジノービアは首をつろうとするが、けっこうですが、月並みですな、とたしなめられる。

 

 主題はそれでいいとして、次に文体の問題がある。文体には簡潔調、昂揚、散漫、間投詞調、形而学調、超絶主義調、それらすべてをこき混ぜた混成調がある。そのほかに、博識らしく見せるために、気のきいた事実や表現があり、フランス語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語ギリシャ語など断片的でいいから文章にはめこむことが推奨される。こうした教えを受けたジノービアが混成調で書いたのが、「ある苦境」というポウのもうひとつの別の短篇である。

 

 黒人の召使いと愛玩犬のダイアナとともにエディンバラを歩いていると、ゴシック風の大きな教会に出くわした。ジノービアはその尖塔に登り、エディンバラの全容を見わたしたいという抑えがたい欲望にとらえられる。塔に登った彼女は、召使いの肩を借りて、床から七フィートほどの高さにある四角な孔から首を突きだして、三十分以上も眼下の神々しい景色を眺めていた。

 

 ところで、この四角の孔とは時計盤に開いたものであり、そこから時計の針を調節するためのものだった。うかうかと素晴らしい景色を眺めているうちに、まさしく「時の大鎌」たる長針が首に喰いこみ、引き抜くことができなくなってしまうのである。この圧力によってまず片眼が飛びだし、尖塔の急な斜面を転がり、雨樋のなにかにはまり込んだ。しばらくするともう一方の眼も飛びだして同じような道筋をたどった。やがて最後の皮もちぎれ、首が通りのまんなかに落ちていく。

 

 ところが、彼女が感じているのは迷惑を及ぼしていた首を厄介払いできたという幸福感なのだ。二つに別れたジノービアはどちらも自分の方こそ本当のジノービアだと思うのだが、なんとも曖昧である。いつものように嗅ぎ煙草を吸おうとしたのだが、鼻のある首がないのに気づき、首の方へ投げてやる。

 

 「首はしごく満足げに一ひねり鼻にあてがうと、感謝のしるしに私に向かってほほえんでみせた」というのだが、いったいどうやって首は嗅ぎ煙草を鼻にあてがい、胴体はどうして首のほほえみを知ることができたのだろうか。しかしないはずの手足に痛みや痒みをおぼえる幻肢のように、幻首あるいは幻胴体というものがあって、嗅ぎ煙草の臭いも胴体が見たほほえみもそうした感覚を正確に書きとめたものかもしれないのである。