芸術という力業ーーアドルノ『美の理論』

 

美の理論

美の理論

 

 

 三島由紀夫は盛んに美ということを口にした。彼が私淑した先輩作家たち、永井荷風谷崎潤一郎川端康成などは、それぞれにある種の「美しさ」を求めたが、美とは何かなどといった問いにはさしたる関心を払わなかっただろう。彼らは多かれ少なかれ、古典のなかに自分の作品の根拠を見いだすことができ、その連続性を信じていられた。
 
 一方、三島由紀夫は、彼らと同じように古典で教養を身につけていったが、欧米化が止めどなく広がっていくなかにおいて、すでに連続性は失われ、否応なくある理念としての美が求められるようになった。
 
 ところが、西欧においては、プラトンイデアがすでに個物の美的状態をあらわし、それ以降もアリストテレスの『詩学』から、カント、ヘーゲルに至るまで、美学を更新しようとする試みが途切れることはなかったが、いわゆる規範的な意味での美を論じることは、すでに時季外れのことになっていた。
 
 一方、日本においては半ば秘教化された芸道は存在するとしても、美学などは存在したことがなかった。『太陽と鉄』で頂点に達する三島由紀夫の理論的な作品は、砂上に楼閣を築こうとするかのようなものであり、三島由紀夫自身、中年面を下げた自分が美などというのもおかしなことだが、と繰り返し述べていて、ある種のドン・キホーテ的な身振りには十分に自覚的だった。
 
 ほぼ同世代に当たる三島由紀夫安部公房との対談は、安部公房がしきりにヌーヴォーロマンの話を持ち出すのに対し、自分は古くさいことはわかっているが、トーマス・マンなどに問題を感じると返していて、そもそも美学が一度も成立したことがない場所で、その解体だけを受け入れることの危険性を感じていたかのようである。
 
 印象的なのは、ベケットの『ゴドーを待ちながら』に言及して、この芝居の最後の場面でゴドーが登場しないのはけしからんと(言うまでもないだろうが、この芝居はゴドーという人物を待っている二人の会話によって進むもので、最後までゴドーは登場しないのだが、ゴドーはゴッドのことだなどと様々に解釈された)くさしていることによって、なんとかベケットを美学のなかに回収しようとしている(もちろん、三島なりの全身全霊をあげた戦略的な意図がそこには読み取れる)。
 
 美学の豊かな伝統があるドイツでアドルノが、もはや古典的な美は成立しないと思われるさなかにおいて、あえて美学のなかに足を踏み入れたのは、まさしくゴドーが登場しないこと、文学や演劇が徹底的な現実暴露となり、詩的なものという概念を台無しにしたベケットの「抗い難い魅力」を射程に収めた美学を試みることにあった。ゴドーが神のように超越的なものであろうと、そうでなかろうと、それが登場しないことを受け入れるということは、すべてを劇として回収するようなあらゆる調停を欠いた状態を認めることになる。
 
 古典的な悲劇、個人と共同体との相克は、共同体そのものがなし崩しに崩壊していくなかで、成立しなくなり、典型とはなり得ない卑小な個人の個別な日常のなかで不条理劇の悲喜劇になるか、アウシュビッツ南京大虐殺や原爆などといった、悲劇としても劇の介入を許さないようなグロテスクな現実そのものとなり、表象不可能か、表現したとたん戯画化されてしまうものとなる。近代化の大きな流れとして美の一つの準拠=モデルであった自然は方々で掘り返され、モデルとして成立しなくなり、ベケット的な「抗い難い魅力」は、規範を参照することのないより自律的なものとなる。
 
 別の言い方をすれば、ベケットのゴドー以後、二人によって待たれているゴドーが神であるといったあまりに平板なアレゴリー通俗的なものとして排除されるが、何ものも象徴しない象徴を取り入れることは盛んに行われるようになった。象徴は意味こそ失われはしても、かつての響きを微かに保ったまま使用されることになって、意味の希薄化した記号として流通する。
 
 その結果、もはや美は、三一致の法則、黄金比や自然などといったなんらかの基準をもとに生みだされていく静的なものではなく、いつ介入してくるかわからない「抗い難いもの」とつねに角逐を続けていくしかない動的なものに変化した。
 
 そうした崩壊と平衡を欠いた芸術のなかで、アドルノが規範に頼るもののないものの方途として「力業」をあげている。それはたとえば、音楽の場では、古くから楽譜といういまだ完全には表現されていないものを、さらには本来現実化し得ないものを現実化する契機となっているかもしれない。時代考証の点などで非難されることの多い名人技が否定できないのもそのためであり、名人芸こそが表現しきれないもの、現実化し得ないものを現実化する考え得る一つの道でもある。
 
 
芸術が引きついでいる神学的遺産とは啓示を世俗化すること、つまりそれぞれの作品の理想と限界とを世俗化することにほかならない。芸術と啓示を混同することは、芸術にとって避けえないものである呪物特性を反省することなく理論を通して繰り返すことかもしれない。だが芸術からの啓示の痕跡を根絶するなら、それは存在するものを無差別に繰り返すにすぎないものへと、芸術をして引き下げることに等しいと言えよう。意味連関、つまり統一は存在しないものであるため、芸術作品によって準備されるが、即自存在はそのために準備が行われているにもかかわらず、準備されたものにすぎないために否定される。この場合否定されるのは結局のところ芸術そのものにほからない。どのような人工物も自己に逆らう。力業として、つまり綱渡り的行為として構想された作品は、全芸術を超える何かを白日のもとにさらけ出している。つまり作品は不可能を現実化するものにほかならない。どのような芸術作品も現実化し得ないところを持つが、それによってごく単純な芸術も実際上、力業として規定されることになる。
 

 

 
 この力業は崩壊を徹底的に押し進めることかもしれないし、動的状態のなかで見事に平衡を保つことかもしれない。概念や感覚あるいはセンスだけを操るだけではいかんともしがたい労働が問題になっているのである。