皮膜の場所――立川談志『淀五郎』

 

  「芸というものは、実と虚の皮膜の間にあるもの也」と近松は言った。しかし、この場合、強調点はどちらにあるのだろうか。つまり、実と虚とを妨げるのは薄い皮膜だけであり、実は渾然としているのだろうか。それとも、皮膜であるにしろ、実と虚のあいだは截然とわかれていることがいわれているのだろうか。やや視点を変えていえば、文楽や歌舞伎はスタニスラフスキー的なのだろうか、ブレヒト的なのだろうか。


 市川団蔵の一座が『忠臣蔵』をやることになったが、判官役が急病で倒れる。抜擢されたのがまだ下っ端の淀五郎。彼の一番の見せ所は四段目の切腹の場である。刀を腹に突き立てたとき、本来なら君主の最後に間に合った大星由良之助が馳せよるはずである。ところが、団蔵の由良之助は花道に平伏したまま舞台の中央には近づこうとしない。

 

 なにか間違いがあったのかと芝居がはねたあと淀五郎は団蔵のもとに駆けつけるが、「おまえが来るなといっているからだ」としかいってくれない。淀五郎なりに懸命に考えてみるが、次の日も結果は変わらなかった。団蔵は「本当に腹を切れ」というばかりだ。思いつめた淀五郎は、いっそのこと団蔵に一太刀浴びせ、そのあとで本当に腹を切ってやろうと心に定める。

 

 それとなく挨拶回りをして、最後に団蔵とともに名優として名高かった中村仲蔵のもとに立ち寄る。淀五郎の容易ならぬ様子を感じ取った仲蔵は話を聞き、実際に芝居をさせてみせる。なるほど、これでは由良之助が近寄れないのも当然だ、自分の短慮から自分が切腹するのはまだしも、家が断絶し、五万三千石の家来たちを路頭に迷わせることになってしまった、仕方がないが悔しい、悔しいが申し訳ない、同じ死ぬといっても一役者である淀五郎が死ぬのと大名が死ぬのとは自ずから異なることになろう。そうしたことを諭され、次の日の舞台の判官切腹の場、これまで花道にとどまっていた団蔵の由良之助が近づいてきた、「おお、待ちかねた」。


 もともと型を身体がおぼえるまで徹底的に教えこむ歌舞伎は、役者と役の人物とが乖離しており、ある意味ブレヒト的だといえるかもしれない。人物の生い立ちから生活環境、それに由来する性格や劇中の心情までを構築するスタニスラフスキー・システムは、西欧の近代劇を経由した我々には、実際にどれだけ実現されているかはともかく、考え方としては当たり前で、古くさく思える。

 

 一方、能や文楽ほどではないにしろ、芝居見物といえば歌舞伎に決まっていたころと異なり、現在では歌舞伎は日常からは離れて、その結果方法的にも新しくみえる場合がある(エイゼンシュテインなどが歌舞伎について熱心に論じたためもある)。


 この噺にでてくる市川団蔵は、中村仲蔵と同時代であることから四世団蔵であり、時代は江戸中期、のころだと思われるが、型を洗練することに心血を注いできた当時の役者にとって劇中の人物になりきるという考えは、あるいはコロンブスの卵にも匹敵するような思いがけぬ発見であったかもしれないのだ。虚実というときごく自然に連想されるのは、リアリズム的な実世界の人間と舞台上の虚構の人物だが、だとすると近松の言葉もまたこの発見の驚きだったのかもしれない。