眼球譚ーー桂米朝『犬の目』

 

 

 

特選!! 米朝 落語全集 第二十六集

特選!! 米朝 落語全集 第二十六集

 

 

 落語には呑みこんだ義眼が詰まってお腹がぱんぱんになり、医者が肛門から覗いてみると、呑みこんだ義眼と目があったというというバタイユばりの変な噺(『義眼』)があるが、この噺も相当に変な噺で、桂米朝でしか聞いたことがない。
 
 ある男が眼が痛くなり、友人のすすめで目医者に行く。医者は早速眼をくりぬいて、こんなに膿と血で汚れていたら、痛いのも無理はない、見てごらんというが見られるわけはない。洗浄液につけてしっかり洗えば大丈夫だと、しばらく液につけておいたら少々時間が長すぎたのかふやけてしまった。
 
 干して乾かす必要がある。ちょうど乾いたころだと見てみると、なくなっている。よく見ると常日頃ちゃんと閉めておけと命じていた裏木戸が開いている。察するところ、隣の犬が入ってきて食べてしまったらしい。
 
 正直に犬に食べられてしまったともいえないから、犬の目をくりぬいて代わりにすることにした。犬は野生のものだから、その目が新たに芽吹くこともあろう。不安なのは大きさが合うかどうかだったが、ちょうどうまい具合に収まった。真っ暗でなにも見えないといわれて多少まごついたが、それも眼球が裏っかえしになっていたからだった。しかるべき位置に入れてやると、よく見えるとのこと、念のために二日後に様子を見せにいらっしゃいということになった。
 
 二日後に現われた男、ひどく満足な様子である。夜、寝ていると、小さな物音にもすぐに反応して起きてしまうことはあるが、晩でも昼のようにものがよく見える。ただひとつ困ったことがある、電信柱を見たら小便がしたくなる。
 
 切られた首を提灯のようにぶら下げて進む『提灯首』のように、人体の一部がオブジェのように取り付け、取り外しが可能となるのも落語ならではであるが、生首というのは谷崎潤一郎の『武州公秘話』や(正確に言うと、こちらは生首の鼻をそぐことに執着する話だが)、あるいは団鬼六のエッセイに登場する生首愛好家の話などに見られるように、残酷絵などでもおなじみのテーマであり、私なども、愛好とまでは行かないにしても、『四谷怪談』の伊右衛門が吐く「首が飛んでも、動いてみせるわ」などといった啖呵はぜひ一度は言ってみたいものである。
 
 そのほかにも川端康成の文字通り片腕を抱えて歩きまわる「片腕」があり、山田風太郎には鼻の部分に男根がひっつく短編があったと思うし、それこそ忍法帳では基本的に男根などというものは付け外し自由なものであったはずだ。しかし、生首、腕、男根などに共通するのは、その全体が可視的なものであり、人形というものを考えたとき、容易に着脱が可能なものとなる。
 
 眼球もまた、義眼としてとらえれば、オブジェとしての機能を十分に備えているのだが、米朝もくすぐりに加えているように、くりぬいた自分の眼を自分で見られるわけはない。自分の首や腕や男根の着脱は可視化して想像できても、眼球の場合は可視化することができない。その結果、自己と他者、あるいは可視的なものと想像的なものとのあいだに埋めることのできない断絶が生まれる。
 
 眼球とは、感覚の主要な部分を担っていながら、ある種外界と触れあっている内臓のような存在であり、多くの意味でつねにある種の断裂、落差、齟齬から逃れることができない。言い方を変えれば、まさしく意識が発生する存在の断裂をあらわしている。いくら特撮技術が進歩しても、ブニュエルとダリの『アンダルシアの犬』の冒頭の、剃刀が眼球を切り裂く場面の衝撃が弱まることがない秘密はそのあたりにあるのだろう。