琴瑟相和する喧嘩――古今亭志ん生『親子酒』

 

古今亭志ん生 名演大全集 3 らくだ/強情灸/親子酒/宿屋の富

古今亭志ん生 名演大全集 3 らくだ/強情灸/親子酒/宿屋の富

 

  放蕩息子が外に遊びに行くのをなんとか止めようというのでは、『干物箱』や『二階ぞめき』があり、もうすでに勘当されているところからはじまる噺では『船徳』がある。

 

 父子の喧嘩となると『よかちょろ』や、息子の方がもっと幼くなると『真田小僧』(どちらもむしろ悪知恵に長けた息子に父親が言いくるめられてしまう噺だが)などがあるが、いずれにしても葛藤や確執まで行く前にすんでしまうようだ。

 

 それはあながち落語が喜劇であって、『ハムレット』や『リア王』のように家族のあり方と運命とが一致するような悲劇的状況を取り上げないからというばかりでもない。西鶴近松にも悲劇はあるが、たとえそこに一家の没落があったとしても、それがそのままこの世の破滅にまで直結するようなある意味形而上学的瞬間はついぞあらわれない。


 そもそも、西欧におけるような父親の象徴的な価値が日本では受け入れられていないのかもしれない。父性の失権や再生といったテーマは、アメリカ映画ではよく見受けられるが、アジアではさほど実感をもって受け入れられていないのではないだろうか。江戸においては、町人にとっては武士が、また武士にとっては主家の方がよほど象徴的な権威を担っていたといえる。


 ともに大酒飲みの父子がいた。父親はさすがに酒ばかり飲んでいる息子の将来のことが不安になってきた。そこで二人そろって禁酒の約束をした。最初のうちは約束を守っていたが、十日もすると、しかも寒い晩でもあったので、女房に一本だけだといって銚子に燗をさせる。根が好きなものだから一本ですむわけがない。とうとう禁酒前と同じように、ぐでんぐでんになるまで呑んでしまった。

 

 そこに帰ってきたのが、同じようにぐでんぐでんに酔っ払った息子である。注文を取りに行ったお得意先の若旦那に、春になってめでたいから一杯呑んだらどうだ、と勧められて、いったんは断ったものの、えらい、お前は男らしい奴だな、一杯どうだ、といわれて酔っ払うまで呑んでしまったとのこと。

 

 馬鹿野郎、なんであれほどいったのに呑んでくるんだ、酒をそう呑むからみろ、お前の顔なんぞは七つにも八つにも見えるわ、化け物みたいだお前は、そんな奴にはこの身上は渡せませんよ、あたしだってそうだ、こんなぐるぐる回る家もらったってしょうがない。


 同じ日に同じように酔っ払って、まるで子供の喧嘩のようで、葛藤や確執が入り込む隙がない。酔っ払った状態にできあがるまでの時間差が生みだす齟齬はないし、辛み癖も泣き上戸も笑い上戸もなく、同じようにとんちんかんなことをしゃべっていながら、話そのものは通じているといったある意味、酒飲みにとってのユートピアがあらわれているといってもいい。象徴的権威や人格も溶け去って、残されたのは最後にはまったく口をはさまなくなる女房=母親だけで、あるいは母胎回帰のユートピアとはその神秘のベールをはぎ取って世俗化すると、こんな具合であるかもしれない。