もうひとつの決闘――古今亭志ん生『巌流島』
巌流島といえば、言うまでもなく、宮本武蔵と佐々木小次郎とが決闘した場所である。とはいえ、その島はもとからそうした名がついていたわけではなく、佐々木巌流と名乗った小次郎の名からつけられたものであるらしい。
もっともこの噺の舞台になっているのは、隅田川の厩や駒形の渡しである。渡しには武士から町人まで多くの人間が乗りあわせている。船が出ると、ある若い武士が灰を落とそうと、煙管の雁首を船縁でたたいた。ところが、緩くなっていたのか、雁首がとれて川に落ちてしまった。
船を止めろ、落ちたところはわかっていると、武士は言うがもちろんそんなことはできない。船内には屑屋も乗りあわせていて、商売っ気をだしたのが悪かった。残った吸い口の部分をお引き取りしてもよろしゅうございます、というのを聞いて武士が怒りだした。無礼者!と斬って捨てようとする勢いである。同船していた老武士が間に入って詫びたものの聞くものではない。それほど言うなら、貴公が屑屋に代わって拙者と勝負しろ、との一点張りである。
仕方なく老武士は、船中では皆に迷惑がかかる、どこか岸に上がってお相手しようと答えた。桟橋にかかると血気にはやった若侍が一足先に飛び移った。するとすかさず老武士は、槍で桟橋を一突き、船を川に戻してしまった。すっかり喜んだ船中の町人たちは一人残された若侍を罵倒した。すると若侍はなにを思ったか、着物を脱ぎ、短刀を口にして川に飛び込んだ。さては、船の底に穴を開けるつもりではないかと船中のものはまた不安になる。やがて船の傍に浮かび上がってきた若侍に船上の老武士は槍を突きつけ、そのほうは、たばかられたを残念に心得、船の底でもえぐりにきたのか、なあに、さっきの雁首を探しにきたんだ。
巌流島がもともとそういう名の島ではなかったというのが第一の誤解だったとすると、私はこの噺についてもうひとつの誤解をしていた。つまり、若侍が巌流島での小次郎のように、待ちぼうけ=置き去りを食らわされたと思っていたのだ。したがって、特に過不足なく、まとまった噺だと思っていたのである。
ところが、最近ほとんど演者によって説明されることはないが(志ん生も談志も説明していなかった)、武蔵との決闘とはまったく関係のないエピソードがあった。佐々木小次郎が船中で喧嘩を売られたとき、相手を小島にあげておいて、勝負をせずにそのまま船をだしてしまったというのがそれであり、そのエピソードがこの噺の題名のもとになっているらしいのである。
映画、特に内田叶夢が監督、武蔵が中村錦之助、小次郎が高倉健の連作が印象に残っているせいか、小次郎というと凜々しい若武者が連想されるのだが、実際には、武蔵より三十才以上も年上だったという説もある。
いずれにしろ、小次郎たるもの屑屋の言葉にすぐ腹を立てるほどそそっかしくはないだろうが、ごく自然に老武士を武蔵に、若侍を小次郎になぞらえて聞いてしまっていたのだ。武蔵が大幅に時刻を遅らせてあらわれたことや島へ渡る船の櫓を削って刀の代わりにしたことなど、どこから伝説かわからないような話だが、落語流に語り直すなら、巌流島の決闘が、老武士の小次郎と怒りっぽい若侍の武蔵であっても一向に差し支えないはずだ。
欠けたところーー田中小実昌『イザベラね』(1981年)
マルクス・アントニウスにはなにか欠けたところがある、とド・クインシーは言ったが、なにもそれは、縁の欠けた皿が皿として欠けたところがある、といった意味合いで言われたのではなかった。
同じ物体である月が季節によって三日月にもなれば満月にもなり、天気によって雲がかかることもあれば、雨に霞むこともある、また、時代や民族によって象徴的な価値が異なってくることもあろう、それと同じように、マルクス・アントニウスという人物の長所欠点をひっくるめた柄の大きさは、人間の心理についてあまりにも実際的な観点しかもっていなかったローマ人や情念についての心理学を発展させることのなかった中世では十分に理解されず、シェイクスピアによっていわばロマン主義的に描かれるまで全体として捉えられることがなかった。つまり、判断する時代の視野の偏りがあるためにアントニウスは欠けたところのある人間として考えられてきた、というわけである。
ところで、大内先生にはなにか欠けたところがある、と『イザベラね』のぼくは言うが、なにもそれは、縁の欠けた皿が皿として欠けたところがある、といった意味合いで言われているのではない。欠けた皿は欠けた部分を接いでもとの形に戻すことができる。そうしたどこかで取り戻すことのできる欠損が大内先生にあるわけではない。
ぼくと一緒にストリップ小屋をまわる大内先生(元々は軽演劇の作・演出の先生だったためにそう呼ばれているのだが)は、確かに非常に怠け者のようだが、昔からの仲間やストリッパーの亭主やヒモと較べてずっと怠惰だとは言えない。欠けているというのは、他人と比較して欠点が目立ったり多かったりすることではない。実際、欠けているということでぼくが持ちだす具体的な事実とは、大内先生がいつもすぐ電話にでる、そのことだけなのである。
ぼくの言葉は、人間にはなにか欠けたところがある、と言い換えることができる。理想的な人間像があって、それに達するまでにはまだ欠けたところがある、というのではなく、なにと特定することはできないが欠けたところがある、と言っても不正確で、欠けてないないかがあるのではなくて、ただ、欠けているだけ。
そして、げんに、ぼくは、よくしかたがないので、と言うけど、しかたがないってのは、なにかをしたかったが、しかたなく、ほかのことをしたとか、それをしなかったってことだけど、ぼくの場合は、なにかをしたかったが、しかたがなくではなくて、ただ、しかたがないだけのことだ。
ユーモアと滑稽--椎名麟三『ユーモアについて』
新約聖書全巻のうちにはただ一つの諧謔もみあたらない、しかしこのことで一巻の書物は論駁されているのである、とニーチェは言う。
事実、聖書にはイエス・キリストが人々を笑わせたという記録もなければ、自ら笑ったという箇所も見あたらない。であるから、ほんとうのユーモアをもっているのは、キリスト教だけなのだ、という椎名麟三の言葉を読むと驚かざるを得ないだろう。
キリスト教とユーモアとの結びつきということになると、たとえば、G・K・チェスタトンの名が浮かぶ。しかし、チェスタトンのユーモアがカトリック的で、派手で、多幸症的だとすると、椎名麟三のユーモアはプロテスタント的で、質素で、禁欲的だと言える。
チェスタトンにとっては世界のあらゆるものがでたらめで、驚異に満ちており、それゆえにユーモラスで、ユーモアとは神が創造したこの世界を肯定することにある。世界を肯定する哲学や文学は、たとえそれがキリスト教となんの関わりもないものであっても、この創造された世界の驚異を享受するという点において、キリスト教的に読みかえることができる。つまり、チェスタトンによれば、人間はキリスト教的な存在として生まれてくるのであり、幼児期には誰もがもっていたでたらめでユーモラスな世界に驚嘆する能力を徐々に失うことによってキリスト教的でなくなっていくに過ぎないのである。
一方、椎名麟三によれば、人間とは本来もっていたユーモアを次第に失っていくのではなく、成長によって、あらゆる人間的努力を無意味なものとする死を認識することで初めてユーモアというものを視野に入れる。しかもそのユーモアたるや人間によって容易に獲得できるようなものではなく、本来イエス・キリストにしか可能でないような聖性に満ちたものである。というのも、人間においてユーモアは常に滑稽と苦悩とに分裂する。
笑いを誘う滑稽さとは、無意味さを客観的に見やることで、その無意味さとは多かれ少なかれ、究極的な無意味をもたらす死に通じている。こうした多かれ少なかれ死に通じている無意味な滑稽さは、主観的には多かれ少なかれ意味のある苦悩をもたらすこととなろう。ユーモアとは、滑稽と苦悩、言い換えれば、死に通じる滑稽の無意味さと生につきものの苦悩に満ちた意味との対立を解消できるようなイエス・キリストや聖霊にのみ可能な超越的地点だということになる。
しかしながら、このように捉えられたユーモアは、いかんせん具体的な例が示されないために、細部に止まるユーモアよりは原理に遡行するイロニーに近く、ユーモアの大半の魅力が失われているように私には思える。ただ、その論の進め方や言葉の端々が幾分滑稽のおかしみを誘うことはあって、たとえば、椎名麟三によるとキリスト教は絶望する人間に次のように答えるという、
君もそうなのか、ぼくもそうなんだ。三十億の人類を片端から殺してしまうだけでなく、人類というものを歴史のはじめから抹殺してやりたいくらいなんだ
夫婦というときめき――古今亭志ん生『替り目』
古今亭志ん生 名演大全集 36 ~塩原多助~山口屋のゆすり/替り目/抜け雀
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ロバート・ルイス・スティーブンソンが指摘するところによると、シェイクスピアの芝居にはフォルスタッフを除けば結婚していない登場人物はいないという。もちろん、冒頭部分で独身の人物は多いが、変装や性の交換や間違いなどの様々な経過を経て最後には結婚する。また、『リア王』の道化のように結婚しているかどうかもわからず、その結婚生活が想像できないような人物も幾人か登場するが、彼らにしても独身者の思想をあらわすわけではない。
もっとも、シェイクスピアの時代にはそこまで厳格なキリスト教的な愛の観念は希薄だったろうから、結婚がそれほど神聖視されることもなかっただろう。それは、特に喜劇の場合、結婚にいたるまでの策略や駈引きがいかに遊戯性に満ちているかでもわかる。それゆえ、シェイクスピアでは、もちろん、『マクベス』や『オセロー』といった重大な例外はあるとしても、両性の親和性と反撥がもっとも活発に働くのはいかに結婚という目的に達するかにある。
結婚がさほど神聖に考えられていないことではシャイクスピアと落語は似ている(なにしろ女房を最下等の女郎にして稼がせる『お直し』のような噺があるくらいだ)。もっとも大きな相違がある。
ひとつには、落語には、与太郎と御隠居という大いなる独身者の世界がある。与太郎と御隠居がいなければ、落語の世界はどれほどやせ細ってしまうだろう。もうひとつ、落語には恋の駈引きがほとんど見られない。圓朝の原作や講談種の噺で匂うような色気が表現されることはあるが、そのほかで僅かに思い起されるのは、囲碁で帰りが遅くなって家を締めだされた若旦那に無理矢理娘がついていき、おじさんの家でおかしなことになってしまう『宮戸川』や花魁を一途に思う職人を語る『紺屋高尾』くらいなものなのである。
結婚前の若者に代わって落語でもっとも大きな役割を占めるのは夫婦である。『替り目』は『芝浜』『火焔太鼓』につらなる噺だが、両者のように金を拾ってくるだとか、古ぼけた太鼓が殿様に思いのほか高く売れるといった特別な事件がないために、夫婦の関係がより純粋な形で浮かびあがっている。
酔っぱらった男が夜、家に帰ってくる。家の前で車に乗ったり、外で飲むのと家で飲むのは違うのだからと、肴におでんを買いに行かせたり、さんざん注文をしたあげく、しかしそうはいうものの自分にはもったいない女房で、あいつがいなけりゃなんいもできやしない、とつぶやいていると外にでていたと思った女房がまだそこにいて、まだいたのか、元帳を見られちゃった。
志ん生はここで切ってしまうが、本来は途中でうどん屋を呼んで、うどんを食べもせずうどん屋の鍋で酒の燗をするくだりがあり、それを聞いた女房がそれじゃあ悪いじゃないか、うどんを頼んであげようと呼ぶと、うどん屋のほうが、いけない、あそこはちょうど銚子の替わり目だ、とサゲることで、『替り目』という題の意味が明らかになるらしいが、私は最後まで演じたものを聞いたことがない。
いかにも落語の夫婦というと、酸いも甘いも噛み分けた安定した関係を思ってしまうが、とんでもない。シェイクスピアのように変装や身分の入れ換えがないだけに印象は地味だが、おさまりかえった夫と拳々服膺しているかに思える女房のあいだにはめまぐるしい立場の変転があって、意中の人物を見事仕留められるかと同じくらいのときめきがある。
長いお別れ――ロバート・アルトマン『ロング・グッドバイ』(1973年)
豪傑と愚鈍さ――『義経記』
森田草平から聞いた話として大佛次郎が書いているが、明治大正のころまでの旅芝居や村芝居では、義経を舞台にださないと観客が来なかった。
仙台萩でも忠臣蔵でも義経をだす。なんの芝居の何幕からの舞台であろうが、まず義経が登場し、名乗りをあげて大喝采を浴びる。そして、おもむろに左右を見やり、「せっかく出でて来たれども、さしたる用もあらざれば奥に入りて休息到さむ」と再び喝采を浴びながら退場するのだそうである(『義経の周囲』)。
こうした人気が生みだしたのが『義経記』だが、ここでの義経はまるで颯爽としたところがない。『平家物語』で語られたいくところ可ならざるはあらずといった戦いの様子は、「御曹司寿永三年に上洛して平家を追ひ落し、一谷、八嶋、檀浦、所々の忠を致し、先駆け身をくだき、終に平家を攻め亡ぼして・・・」と簡単に触れられるにとどまっており、あとはただ逃げ回るだけなのだ(その上での後退戦はあるが)。一言で言えば、てんで意気地がないのである。
頼朝と義経の不和の原因についてはいくつも説があるようだが、兄弟とはいえ生まれ育ったところも違い、行動を共にすることもなかったこと(『義経記』では一度対面するだけである)を思うとさほどまで遠慮し、拳々服膺すべきなのかと特に贔屓ではなくともじりじりするのではなかろうか。
実際、有力な僧である勧修坊は、法皇の宣旨をもらい、四国九州を従えて、日本を二分するがいいと勧めるのだが、はかばかしい返答をすることもなく義経は姿を消してしまう。
しかし、戦勝に次ぐ戦勝から、逃亡へのこの変化は、実際の出来事がどんなものであったかはともかく、中国に典型的な凡庸なリーダーがはじめて物語として定着したことを意味しているようにも思える。『平家物語』の頼朝は、物語の主要な人物ではあるが、都を離れているためか、人物として曖昧で、曖昧ななかから権力が放射されているのに無人称の不気味さがあって、讒言する梶原景時がいなかったとしても、この権力はやがては義経に及んだような印象を受ける。
一方、『義経記』の逃げ始めた義経は、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、伊勢三郎、佐藤忠信などと個人的な信頼を築きながら、自分自身は『水滸伝』の宋江や『三国志演義』の劉邦などのような愚鈍と見まがうほどの大将へと変わっていく。伝説の軍書である『六韜』『三略』を習得して戦術には通じているはずなのだが、その方面でも力を発揮することはない。
中野重治の詩「豪傑」では「つらいというかわりに敵を殺した/ 恩を感じると胸のなかにたたんでおいて/ あとでその人のために敵を殺した/ いくらでも殺した/それからおのれも死んだ」とあるが、死ぬことは詩と同様であっても、義経は豪傑であることを弁慶らに任せ、別のものに変貌する。義経は、もちろん、修辞上の通例ということもあるだろうが、仲間の前でとにかくよく涙を流す。そうした意味では自ずからにじみでる人品骨柄こそ何度も言及されるが、権威や近寄りがたさとは無縁であって、そうした大将でありながら無防備な姿こそ人々に愛されるゆえんなのだろう。
不動の妙――柳家小さん『笠碁』
能や歌舞伎とは違って、落語では芸の継承がより気づきにくいものとなっている。もちろん、古典芸能としての芝居には動きが伴うこと、基本的には世襲で、親子のあいだで幼いときから真似をすることから徹底的に教えこんだうえで型を伝承することが大きい。
型があるからこそ芸風というものが一個人を越えて、歴史的な系譜一党にまで広がる。たとえば、市川團十郎といえば、何代目かに関わることなく、荒事を得意な演目としていることが容易に連想される。もしそれが親子であれば、先代、あるいは先々代といまを実感として比較することも可能で、観客も演者もある種の歴史的厚みをもって向かい合える。
一方落語は誰にでも門戸は開かれているが、その分、親子のあいだで型を徹底的に身体に覚えさせるようなことはない。名前を継ぐのもいまでは随分恣意的で、いまの団十郎を見て先代の芸を懐かしむというような連続性は落語には欠けている。
志ん生と志ん朝は親子だし、どちらも名人と言われておかしくない落語家だが、志ん朝を聞いて志ん生を思い返すことはまずないのではないだろうか。
そんななか、落語をそれ程数多く聞いたと自慢できないような私にでも、個人を越えた系譜や芸風を感じさせてくれるが柳家小さんという名前である。三代目小さんは夏目漱石が絶賛した伝説的な落語家であり、五代目小さんは立川談志や小三治の師匠であるが、現代には珍しい速度の早さ、つまりは流麗な語り口を武器としていない落語家である。
三代目小さんについては、なにかぶつぶつと言っているのを聞いていたら、いつの間にか噺のなかに引きずり込まれていた、といったような感想を聞くが、同じく三代目も威勢のよさや切れ味を武器にした落語家ではなかったのではないかと思われ、個人を越えた系譜、芸風に突き当たる。
川戸貞吉によると、『笠碁』は三代目小さんの得意の演目だったらしく、同じく名人と言われ、皮肉屋として有名だった円喬でさえ「あれだけのものはできないから」と演じなくなってしまったらしい。そして言うまでもなく五代目小さんの十八番でもあった。
今日は待ったなしでやろうと、碁好きで仲のいい二人が打ち始めた。ところが一方が途中でどうもまずい手を打ってしまい、待ってくれと言うが待ったなしでやるという約束だから、とどうしても待ってくれない。やがて昔、金を貸したときのことまで話に出てきて、大喧嘩となり、二度とお前などと碁を打つものかとなってしまう。
しかし、雨の日が続いてすることもないと、お互いに碁が打ちたくってしょうがない。そもそも二人とも碁会所などに行って碁を楽しむには弱すぎる、ちょうど同じくらい下手なので絶妙の好敵手だったのだ。じりじりしてどうしようもないので、一方は相手の家の前を通ってみようと思い立つ。眼でも合ったら、挨拶くらいあるかもしれないし、そうなればじゃあちょっとあがっていきなよ、となるかもしれない。あいにく傘がばらばらで役に立たないので、かぶり笠をかぶって出かける。
もう一方のほうも退屈しきって、外を見ている。すると、傘をかぶった相手が家の前を通るものだから、嬉しくなって茶の支度などをし始めるが、通り過ぎていってしまう。なんだ、とがっかりすると、また戻ってきたりする。お互い意地があってなかなか声がかけられないのだ。だが、おい、へぼ、と声をかけたことなら、なんだ、ということになって、どっちがへぼか決めようじゃないか、と碁盤を囲むことになる。打ち始めると碁盤のうえに雨のしずくが垂れてきてとまらない、ああまだお前かぶり笠取らないじゃないか。
考えてみると、この噺はまったく動きがない点で落語のなかでも珍しい。ひとりが家の前を行ったり来たりするところも、視点はその動きをじりじりしながら見ている方にある。三代目小さんはその見ている様子を目線だけで追って表現したそうである。五代目小さんのほうは、首を左右に振って表現した燕枝系のやり方だそうだ。だとすると、直接的な型の継承はなされていないことになるが、まったく動きがない噺が十八番になるということにおいて、より深い形で、いわば演出ではない骨格の部分で見事な継承がなされている。