狂気の愛――古今亭志ん生『二階ぞめき』

 

   

江戸川乱歩名作選 (新潮文庫)

江戸川乱歩名作選 (新潮文庫)

 

 

 ボードレールによれば、ハシシや阿片を服用しても、その人物が思ったこともないような奇怪な幻想や超自然的で荘厳な天啓などが訪れるはずもないという。脳や器官の反応は強まるにしろ、反応そのものは当人の普段と変らない。つまりこれらの麻薬は、「人間の不断の印象や思考を拡大してくれる鏡ではあっても、鏡以外のものではない」(『人工の楽園』安東次男訳)のである。


 『二階ぞめき』の二階にもいくらか似たところがある。若旦那は毎晩吉原通いで、父親は腹を立てている。心配した番頭がもうちょっと控えるように意見をするが、うまく言いくるめられてしまう。

 

 そこで番頭、よろしいあなたの味方になりましょう、父親には内緒で好きな妓の身請けをし、どこかに囲っていつでも会えるようにしましょうと申しでるが、若旦那は、俺は吉原が好きなんだ、妓が好きで行くわけでもなんでもない、身請けだというなら吉原をもってこいという。よろしい、といって棟梁に頼み、二階に吉原をつくってしまった。

 

 できあがったと聞いた若旦那は着物を着替え、夜露が毒だと手拭で頬っかぶりして、二階に上がっていく。腕のいい棟梁の仕事だけにすべて整っている。しかしどうにもならないのは誰もいないこと。大引け過ぎだという設定にしたものの若旦那は、ちょいとちょいとちょいと、あなたと呼びとめる若い衆や娼妓の役まで勤めねばならない。やがてあがるあがらないで三人が大喧嘩になってしまった。

 

 二階から息子の大声が聞えてくるので親父は驚いた。たまにいると思ったら、喧嘩してやがる、と小僧の定吉に静かにするよう言いに行かせた。定吉はすっかり二階が様変わりして綺麗になっていて、しかも若旦那がひとりで大立ち回りをしているのに驚いた。若旦那、若旦那、と声をかけると、定吉か、悪いところで会ったなあ、ここで会ったことを家に帰ったら親父に黙っててくんねえ。


 立川談志がこの噺のなかで「闇の夜は吉原ばかり月夜かな」という其角の句を引用して言っているが、当時は文字通り鼻をつままれてもわからぬほどの闇が夜を覆っていた。そうした漆黒の闇のなかにひとつの街が浮かびあがるさまはどれほど豪奢であったことか。そしてそこに映しだされる娼妓、めいっぱいおしゃれをしてきている客の着物のさまざまな色合いは街をなおさら現実とは隔離した別世界として際立たせたことだろう。


 ところが、二階の吉原にはそのどちらもない。ボードレールのハシシや阿片と同じように、この二階の吉原を与えられても、誰でもがぞめき、つまりひやかしをしてまわれるわけではないのだ。もちろん娼妓目当てで通っているような人物には無理であるが、そればかりでなく光の歓楽街を現出させる幻視の能力が必須なのである。江戸川乱歩の『押絵と旅する男』ではある男が浅草の十二海から覗かれる押絵のなかの娘に熱烈な恋をし、逆さにした遠目がねを通って押絵のなかに入り娘と一緒になる。『二階ぞめき』とは、実は、そうした狂気の愛の物語と考えるべきである。