快楽の累積的横滑りーーピーター・グリーナウェイ『数に溺れて』(1988年)
脚本、ピーター・グリーナウェイ。撮影、サシャ・ヴィエルニ。音楽、マイケル・ナイマン。
イギリスのサフォークは、イギリスの東側の海、つまり黒海に面した場所にある。自然の多いところであるようだ。そこにシシー・コルピッツ1、2,3,の母親、娘、孫娘という三人の女が暮らしている。
母親の1(ジョーン・プローライト)は若い愛人といちゃついている夫を浴槽におぼれさせる。母親1には、いつも言い寄っているマジェット(バーナード・ヒル)なる男がおり、この男は検視官で、母親1はうまく検死結果を事故に見せかけるように頼み込む。するとコルピッツ2(ジュリエット・スティーヴンソン)も、怠惰で食欲ばかり旺盛な夫を海でおぼれさせ、思わせぶりなふりをしながら、検死報告をねじ曲げさせる。残るコルピッツ3もまた、新婚そうそうであったが、すぐに夫に飽きてしまって、プールでおぼれさせてしまう。
三人の女はギリシャ神話で運命を司るとされる三女神のようでもあり、『マクベス』の魔女のようでもある。
数々の絵画の構図を引用し、検視官マジェットの息子が常にものを数えることに没頭しており、1から100の数字がもれなく映画のなかにちりばめられているという。
ゴダールの『パッション』でも、人間を使った絵画の再構成の試みがなされていたが、その過程が詳細に描かれる『パッション』とは異なり、デッサンを次々に描いてはページをめくっているようなラフさがあり、『モンティ・パイソン』のようにばかばかしい。
シシー・コルピッツ軍団が夫を殺すのに、やむにやまれぬ必然性があるわけではないし、事故であることを装うよう頼まれる検視官も、困ったな、などといいながら、さして困る様子もなく、それぞれの事件を片付けていく。
原題は順番に溺れさせる、とも邦題の『数に溺れて』とも読むことができるが、溺れるというときに感じる深さとは無縁で、動機も原因も感情もほとんどないこの世界は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のように、すべての出来事が軽快に表層を滑っていく。