お金と時間と崩壊とーー内田百閒『百鬼園随筆』

 

百鬼園随筆 (新潮文庫)

百鬼園随筆 (新潮文庫)

 

 

 

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

 

 

 百閒が『阿呆列車』に典型的である「山のたたずまい、川の曲がり工合」からなる風景を頑なに守っていることは、百閒の作品から時間を奪っている。百閒の風景は、時間によって変化を被るものではないので、その風景がドームのように百閒の世界を覆っているのだとすると、根本的に、百閒の世界は時間の進入を許さないようにできあがっている。

 

 事実、『冥土』や『旅順入城式』のどの短篇でも、そこで物語られている出来事がどのくらいの時間のうちに生じたのか容易に読み取ることができないだろう。出来事が起こっているのであるから、なにがしかの時間が経過しているはずなのであるが、風景が常に同じ質を保っているように、出来事の生起のテンポが常に一定しているので、時間の経過を実感することができない。

 

 それゆえ、百閒の作品にはサスペンスがない。出来事の重要性によって時間の密度が変わり、それによって叙述が伸縮するようなことはないのである。また、当然のことながら、登場人物が成長するようなこともない。性格の変化も、人格の完成も百閒の作品には無縁である。


 百閒は、その工面に苦労が絶えないお金と時間とを比較考察している。

 

 実際に就いて考えるに、吾人は決して金を持っていない。少くとも自分は、金を持たない。金とは、常に、受け取る前か、又はつかった後かの観念である。受け取る前には、まだ受け取っていないから持っていない。しかし、金に対する憧憬がある。費った後には、つかってしまったから、もう持っていない。後に残っているものは悔恨である。そうして、この悔恨は、直接に憧憬から続いているのが普通である。それは丁度、時の認識と相似する。過去は直接に未来につながり、現在と云うものは存在しない。一瞬の間に、その前は過去となりその次ぎは未来である。その一瞬にも、時の長さはなくて、過去と未来はすぐに続いている。幾何学の線のような、幅のない一筋を想像して、それが現在だと思っている。Time is money.金は時の現在の如きものである。そんなものは世の中に存在しない。吾人は所有しない。所有することは不可能である。
    (百鬼園新装  『百鬼園随筆』所収)

 

 百閒のお金の苦労は、特別贅沢な趣味をもっているためではない。手に入ったお金は、なんらかの物に交換されてコレクションされるわけではなく、ただ日常生活を送るために使われる。もちろんお金を貯めることにも関心がないから、方々からお金を借りてやりくりをする、百閒言うところの「錬金術」は、お金を債権者から債権者へ移動させることや生活に消費することにあって、所有の意志を全くもたない。


 時間についても同様のことが言える。「時は金なり」というひどく通俗的な言葉に落ちついているこの考察は、しかしその言葉の意味を全く違ったものにしている。ここで時間について言われているのは、時間は富に変換される有力な財源だというようなことではない。時間の計り知れない性格について一般的に言われていることそのままを繰り返しながら、今と言った途端に過ぎ去ってゆく、捉えようとしても捉えることのできない現在に対する焦燥が語られるのでもない。

 

 むしろ、現在などというものは、必要ないとまでは言わないが、お金と同じように右から左にやり過ごすか、速やかに消費すればいいものなのである。百閒の無為とはそうしたものであり、現在というこの瞬間を大事にするなどという心底は、使いもしないお金を貯め込んでおくことのように卑しむべきものでしかない。


 現在は、阿房列車の車窓に流れる景色のように、百閒が頑なに守る風景から風景をつなぐものでしかなく、百閒の風景に現在は必要ない。だが、百閒には必要でない他者が、分身という形で百閒の世界に侵入し、他者の視点によってその風景に亀裂を入れたのと同じく、やり過ごせばいいはずの現在が百閒の世界に思わず混入してしまう瞬間がある。それが、「水を浴びた様な気持」や「髪の毛が一本立ちになる」恐怖が「私」を占領し尽くしてしまう状況である。その瞬間は、多くの場合、いま経験していることが、実は過去に経験したことをなぞっていることに気づくことによって生じる。


 このような過去の想起や繰り返しは、所詮は過去のことであり、百閒の風景を補強しこそすれ、その崩壊をもたらすものではないかのように感じられるかもしれない。しかし、過去との思いがけない出会いは、単に過去を再現することや忘れていた記憶の内容を突然に思い起こすということではなく、過去の何でもない出来事を現在の状況に結びつけるような視点が、「私」の記憶の死角を見通すことができるような別の視点が存在することに気づくことにある。

 

 現在は、幾何学の線のように、もはやないものといまだないものの間に引かれた虚構に過ぎず、過去を未来につなぐものとして無為に過ごされるべきであるが、そうした無為を外から眺める視点が、もはやない過去を新たな視点によっていまあるものとして呈示するときに、一瞬の幻影のように現在があらわれる。百閒の恐怖は、現在を覚えず触知することにあり、常に突然で、「水を浴びた」ときのように否応がない。


 こうしたことから、丁度、『旅順入城式』の「映像」で盃の底に上にある電気が映っていることが、なにも驚くことはないのに恐ろしいのと同じように、『冥途』における白くみずみずしい襟足や、かつて歩いた同じ道を再び歩いているというなんら驚くようなことのないものが恐怖を引き起こす理由が理解できる。

 

 恐怖は、襟足や道にあるのではなく、風景によって覆われ、他者も現在も入るはずのない世界に、風景に穴をあけ、風景の向うの世界を暗示させるような他者の視点や、時間に左右されない風景を流動化し、変転させるような現在が紛れ込んでいることによって引き起こされるのである。『冥土』や『旅順入城式』といった短篇に漂うカタストロフの予感は、風景を念入りに仕上げれば仕上げるほど高まってくる、風景の外部に対する不安であり、文字通り、世界の崩壊に対する恐れが産み出したものである。