小判を生む闇――井原西鶴『西鶴諸国はなし』
『西鶴諸国はなし』の一篇、「大晦日はあはぬ算用」は『一代男』『一代女』『五人女』などに続いて西鶴の諸作のなかでもっとも知られているものと言えるかもしれない。
浪人の原田内助は薪や油に事欠くほどの貧乏暮らしで、大晦日の支払いも乗りこえられそうにない。そこで、たびたびなので忸怩たるところではあるが、医者をしている女房の兄に無心をする。先方も見捨てがたく思ったのか、十両に「貧病の妙薬、金用丸、よろづによし」と上書きをして貸してくれた。これで年が迎えられると喜んだ内助は、自分の幸運を少しでも分けようと、酒の用意をし、仲間の同じく貧しい浪人たち七人を誘った。酒の席で、上書きともども金をあやかりものだと一同にまわした。
ところがしまう段になると一枚足りない。事を荒立てまいとした内助は、支払いをしたのを忘れていたと取りなすのだが、たしかに十枚あった、銘々身の証しを立てるべきだと着物を脱ぎはじめる者もある。やがてひとりの男が、因果なことに自分はここに一両もっている、たしかにこの一両は昨日小柄を売ってこしらえたものだが、証拠があるわけでもない、と腹を切ろうとする。そのとき、丸行灯の影から、ここにあった、と誰からとも知れず小判が投げだされた。だが、そのすぐあと、奥にいた内助の女房が小判がありました、重箱の蓋に煮物の汁でくっついていました、といってきた。
十枚の小判が九枚になり、十一枚になったわけである。余分な一両を自分のものだと言いだす者はいない。そこで内助は、一升枡のなかに小判を入れて、お帰りの際持ち帰ってください、とひとりずつ送りだした。あとでみると、一両はなくなっていた。
この一篇が西鶴のなかでも知られたものだと思われるのは、幾度か翻案されているからである。たとえば、真山青果の戯曲『小判拾壹両』がある。もっとも大きな相違は、原作では漠としているが、ここでは綱吉の時代のこととされていること、また、内助の浪人仲間の息子、杢之助が武家の徹底的な批判者としてあらわれることである。
彼は生類憐れみの令に乗じて、犬小屋を建てて儲けようとしている。「侍だとて、もの食ふ口を持つ上は、先祖の手柄を茶話にして寝てゐて食はれる筈はないのだ。それとも高慢云ひたければ、先づ減らない腹を用意してござれ。当時の武士はあらかた知行泥棒だ。」と言い放って内助にも金儲けの協力を迫るのである。そしてこの杢之助が、一両も持ち帰ってしまうのだ。
また、太宰治が『新釈諸国噺』の冒頭の一篇、「貧の意地」でこの作の翻案をしている。この一篇は内助の性格造形に趣向が凝らされており、九両が十一両になるや、余った一両だけでなく、十両のほうも持ち帰ってくださいと言いだすような男なのだ。
「気の弱い男というものは、少しでも自分の得になる事に於いては、極度に恐縮し汗を流してまごつくものだが、自分の損になる場合は、人が変ったように偉そうな理屈を並べ、いよいよ自分に損が来るように努力し、人の言は一切容れず、ただ、ひたすら屁理屈を並べてねばるものである。極度に凹むと、裏のほうがふくれて来る。つまり、あの自尊心の倒錯である。」といかにも太宰的な人物が描かれている。
しかしながら、両者の趣向は、まさしくその趣向において原作のおもむきを損っているように思われる。というのも、西鶴の一篇のなんともいえぬ妙味は、武士に対する批判も内助の性格の特異性も窺われないところにあるからだ。真山青果全集の解題で綿谷雪は杢之助の武士批判を「正に杢之助の口を借りてする西鶴自身の説破にほかならない」と書いているが、西鶴の視線がそんなに単純なものだとは到底信じられない。武士という奇妙な人種の生態を冷静に見守る西鶴の眼が感じられるだけであって、そこには批判も憧憬もまったく感じられない。
そもそも西鶴の一篇では、仲間の浪人たちの描きわけなどはまったくされていない。したがって、もちろん、誰が一両を暗闇から投げだしたかの手がかりなどはまったくなく、一両は個人がどうこうであるより武士という階級、生存のあり方から生みだされたものと感じられることになる。それは成文化された倫理でもないので、闇のなかから投げだされるよりほかない。なにとも知れぬ闇から小判が生まれるという妙な事態にこそ西鶴の感受性は反応したのであり、それは各国の綺譚や怪異を記す諸国噺という形式にもかなっている。