水槽の曖昧な対象--吉田修一『熱帯魚』

 

熱帯魚 (文春文庫)

熱帯魚 (文春文庫)

 

  『熱帯魚』の魅力は、全篇に満ちた捉えどころのない曖昧さにあると言える。


 この本には、「熱帯魚」、「グリンピース」、「突風」という三本の中篇が収められているが、そこに登場する人物たちは、揃ってまったく捉えどころがない。心理、感情、行動の意図、そのどれもが読む者にとって不可解なままにとどまる。といって、心理や感情を撥ね返す不条理な事件が起こるわけではなく、描かれているのはごく一般的な日常の風景なのである。


 「熱帯魚」。そろそろ現場も任せられる位の年季になった大工の大輔は、スナックで知り合った真実とその子どもの小麦、それに少年のとき二年ほど一緒に暮らしたことのある義理の弟光男と四人で暮らしている。四人の住むマンションをただ同然で貸しているのが時先生で、大輔たちが独り暮らしの先生の家を訪れることもしばしばである。


 だが、こんな彼らがそれぞれのことをどう思っているかとなると、ひどく不確かである。確かに、大輔は、子供のことも考えて「ちゃんと籍入れようぜ」と言うからには、真実のことを憎からず思っているのだろうし、真実の方でも、帰りの遅い大輔を探しに出る優しさをみせる。

 

 また、大輔は、一日中何もしないで熱帯魚を眺めている光男に芝居をやりたいという夢があるのを知り、それを助けてやりたいと思う。でも、そうした気持ちがなにか新たな出来事を招き、それを受けて再び気持ちに変化がもたらされるといった進展が語られないために、こうした感情は支えを失って曖昧に霧散してしまう。

 

 大輔の行動についても同じことが言える。彼は、「今年の夏は、お前らを旅行に連れてってやる」と旅行会社に予約したり、仕事先の家主の中学生の娘に手を出したり、公園で鴉を捕まえたりするのだが、これらの行動が大輔という人間に陰影と奥行きを与えることはない。つまり、どの行動にも特別な執着はなく、やむにやまれぬ感じがないので、それぞれの行動が有機的に関連する一個の全体的な人間を浮かび上がらせることがないのである。大輔とは、行動の主ではなく、むしろこれらちぐはぐな行動の束なのだと言えるだろう。


 この捉えどころのなさは言葉にも及んでいる。例えば、大輔を解釈する言葉として、時先生が言うのは「誰にでもやさしいっていうのは、誰にも優しくないのと同じじゃないか?」という読んでいる者が気づまりを感じるような通俗的なものなのだが、それが必ずしも不快ではないのは、どう考えてもそれが大輔の本質を捉えているようには思えないし、かといって、思わせぶりではあるが的外れの意見を間々述べることがあるという性格を時先生に割り当てるためのものでもない不可解さがこの言葉にあるからである。本質的なことを一言であらわそうとする決め台詞とも悪意のあるアイロニーとも言えない曖昧な場所にこの言葉は漂っている。


 「グリンピース」は単純に言えば痴話喧嘩の顛末だが、ここでも人物の輪郭の曖昧さは変わることがない。なにかよくわからない怒りから恋人の顔にグリンピースを思い切り投げつけることから始まり、恋人の家なのに彼女を追い出し、帰ってくるのを待ってるような待ってないような状態で過ごし、帰ってきたらきたで友人の彼女と浮気できないかと外出する「僕」には一貫した姿勢などないように思える。

 

 「突風」でも、久しぶりで取れた長期の休暇をなぜ「新田」は九十九里の民宿でアルバイトをして過ごさなければならないのか、「勘」が働いたからだとしか説明されないし、彼は、民宿のなにごとにも一生懸命で、「度が過ぎ」てしまうちょっと不安定なところのある奥さんをドライブに誘い、東京まで連れ出すにもかかわらず、嘘をついて、放り出してしまう。


 個々の出来事には、特に奇異な箇所はない。しかし、脈絡がないかのように出来事がつなぎあわされ、しかもそこに至る心理的なプロセスが一切触れられていないために、なにか現実とも非現実ともつかぬ妙な場所に導かれる。

 

 この移行は、図と地の反転のような劇的で唐突なものとしては訪れない。「突風」のエピソードを借りて言えば、蝿の視線への突然の切り換えのようには訪れないだろう。(「そのとき新田は奇妙な感覚を味わった。天井を飛ぶ蝿の目線で奥さんを見下ろしていたのだ。魚眼レンズのように景色が歪み、椅子に坐りこちらを見上げる奥さんから、梨のついたフォークが投げつけられる。もちろんさっと避けたのだが、その拍子に擦り合わせる自分の手が見えた。」)

 

 むしろ、「突風」の別の場面、ご主人に叱られた奥さんが鏡の前に立つところ(「夫婦の寝室には厚いカーテンが引かれたままで、奥さんは鏡台の前に座っていた。鏡に映った自分ではなく、鏡を鏡として眺めているようだった。入口に立った新田の姿も、その鏡に映っているが、奥さんと目が合うことはない。」)に妙な場所の在りかが示されている。奥さんが鏡にそこに映っている以上のもの、つまり単に姿かたちでない、鏡の外でもちゃんと生きている全体としての人間を認められないように、この本は、ある場所を横切るもの、ある場所にいるものを描き、それ以外のものを捨象している。

 

 その結果、ごく日常的な事柄が扱われているのだが、それが積み重なっていくうちに、その場所が外の広がりと連関をもつものでないことがわかり始め、なにか妙な場所に導かれていることに気づかされるのである。


 この場所を決定するのは、物やイメージだと言える。人物や言葉は捉えどころがなく曖昧だが、物やイメージは恐ろしくはっきりしている。「熱帯魚」では、汗、水浴び、水槽、プール、台風という水のつながりに熱帯魚と百円ライター、「グリンピース」では、グリンピースと空き缶、「突風」では、蝿の目と鏡、それに奥さんとの追いかけっこ、散歩、ドライブ。こうした強固な枠組みのなかを曖昧な人物が右往左往する。まるで水槽のなかの熱帯魚で、題名が喚起するイメージも内容に即して正確なのである。