おいしい、うれしい、そしてよかった--庄野潤三『鳥の水浴び』

 

鳥の水浴び (講談社文芸文庫)

鳥の水浴び (講談社文芸文庫)

 

  「朝、小雨の降る中を四十雀一羽、ムラサキシキブの枝の脂身を詰めたかごに来て、つついている。一羽が飛び去ると、次の一羽が入れ代わって脂身をつつく。」


 まず、これだけ草花や鳥や気候について語られていながら、日本的な花鳥風月の風情に無縁なのを特筆すべきだろう。唱歌こそ盛んに歌われるが、短歌や俳句が口を突いてでることはない。鳥ならば、うぐいすよりはメジロ四十雀、花ならば、梅や桜よりはばら。しかも、鳥や花が、文章をこぎれいにまとめる情緒や季節感のために使われることはない。なにしろ、庭にくる野鳥のための餌にしてから、牛肉の脂身のかたまりというひどく散文的で、脂っこいものなのである。


 このことは、庄野潤三の文章の出自が、自身様々な場所で書かれているように、日本的な随筆(というのはつまり、明治以降の情緒的な身辺雑記のことで、江戸時代に量産されたものとも異なるのだが)にあるのではなく、イギリスのエッセイにあることを示している。日本的な身辺雑記とイギリスのエッセイとの大きな相違は、その日常についての捉え方にある。身辺雑記の日常とは、自然にそこにあるものである。その情緒とは、結局のところ、目の前にある花や鳥と同じように、自然にこの日常があることの確認である。一方、イギリスのエッセイの日常とは、恒常的な力で働きかけることによって維持されているものである。


 日常に潜む狂気、或は危機といった言葉は、あたかも日常の陰に実体をもった狂気や危機がうずくまっているような印象を与える。だが、日常と別に狂気や危機があるのではなく、日常そのものが狂気や危機を産み出すということが、イギリスのエッセイの発見だろう。トースターで熱を加えられているパンのいったんつき始めた焦げ目が、あっという間に全面に広がるように、日常を維持するのに加えられている恒常的な力は日常を一瞬にして狂気や危機に陥れる力と別なものではないのである。


 であるから、イギリスのエッセイとは、温厚なチャールズ・ラムの隣に禍々しいド・クインシーがいることを見なくては恐らく理解できない。日本におけるイギリス流のエッセイの書き手で言えば、篤実な福原麟太郎の隣に怪物のような吉田健一がいる。


 初期の頃の『プールサイド小景』や『静物』の不安と緊張感に満ちた日常と、一見悠々自適の『鳥の水浴び』の日常とは盾の両面である。どちらも、妻や子供と会話を交わすことによって、或は、活発に出歩き、花や木を植えることによって、丹念に手を加えられた日常である。それがたまたま異なった形を取るのであり、不安や緊張感も悠々自適な生活も共に、日常を維持する力が生む副産物に過ぎない。


 「小さな、紅い蕾。うれしい。」


 『鳥の水浴び』を情緒的な身辺雑記から隔てているもう一つの大きな要素は、乾いたユーモアである。この作品を読んでいて、何よりおかしいのは、際限無いかのように繰り返される「おいしい」「うれしい」「よかった」という言葉である。

 

 確かに、ある種の感情は、分析されればされるほど内実が貧弱になる。「おいしい」「うれしい」「よかった」はまさしくそうした、丸呑みにしなければ味わうことのできない感情だろう。そういった意味で、これらの言葉は選び抜かれた末の言葉だと言うことができる。

 

 しかし、それにしても、あまりに頻繁に繰り返されることによって、言葉はどんどん即物的な音と文字になり、作品全体がスラップスティックのような雰囲気を呈し始めるのである。「私」が「おいしい」や「うれしい」や「よかった」を感じるのではなく、それらの言葉そのものが、幾度でも蘇り、自らを繰り返すために「私」を様々な経験に引きずりまわしているかのようなのである。


 「清水計四郎さんが届けてくれた畑のばらは、赤、黄、淡紅色。」


 「私」の周囲は、二つの世界から成り立っている。一つは、固有名詞や特定の個人や場所と結びついたもので成り立つ世界である。家族や友人との人間関係はもちろんこの世界にある。また、食べ物や植物の多くはこの世界に属している。食べ物とは、母が作ってくれた「かきまぜ」であり、大阪に行ったときに必ず食べる鰻であり、誰彼から送ってもらう果物である。同様に、植物とは、清水さんが届けてくれるばらであり、亡くなった兄が残した「英二伯父ちゃんのばら1号2号」であり、佐藤春夫に貰った実から育ったマロニエである。この世界は、「私」が長い年月をかけ、丹精してつくり上げた日常の世界であり、それぞれのものに歴史の厚みがある。「かきまぜ」は母から孫に受け継がれ、「英二伯父ちゃんのばら1号2号」は大事に守り続けなければならない。


 もう一つは鳥の住む世界である。水盤を作り、餌を与えても、「私」はこの世界と間接的にしか関わることができない。距離を置いて見ることしかできず、「こちらのしてほしいことをしない」ものばかりが住んでいる、丹精の及ばない日常である。


 そして、この二つの離れた世界を一瞬結びつけるのが昆虫を含めた小動物である。妻の首筋に落ちてくるかまきりや道を横切る小さな蛇は、丹念に作り上げた日常を軽い驚きでもってかき乱す、鳥がいる世界からの呼びかけであり、闖入者である。


 朝。妻は「大きなみみずがいたの。どうしよう」という。U字溝の掃除をしていたら、落葉の下にいたの。夏の強い日ざしに当ったら、たちまち弱ってしまうね。どうしようという。
 すぐに出てみると、なるほどU字溝のコンクリートの上に見たこともないような大きなみみずがいる。火はさみでつまんで玄関の椎の木の下へ置いてやると、たちまち土の中に入って、姿を消した。さすがにみみずだけあって、もぐって行く場所をすぐに見つけたのには感心する。よかった。やれやれ。

 

 このエピソードは、「私」がどう日常を維持しているかを見事に描いている。実際、闖入者を丁寧にもとの世界に送り返せる者だけが、「おいしい」と「うれしい」と「よかった」が繰り返される世界に生きることができる。