ブラッドリー『仮象と実在』1

《前置き。フランシス・ハーバート・ブラッドリーは1846年に生まれ、1924年に死んだイギリスの哲学者である。イギリスでは一時期大きな影響力をもったが、日本にはほとんど紹介されていない。ちなみに、弟のA・C・ブラッドリーはシェイクスピアの学者であり、その『シェイクスピアの悲劇』は岩波文庫で刊行されている。

 私がブラッドリーに関心をもつようになったのには、複合的な要因が絡まっていて、一番直接的なものとして記憶しているのは、フランスの実存哲学者であり、神学者でもあるガブリエル・マルセルが自分の知的生活を振り返ったエッセイのなかで、ブラッドリーの著作を読んで、「哲学上の悪夢」に迷い込んだようだったと書いていたことによる。旅先で買って読んだ本のことなのでよく覚えている。しかし、私はマルセルの熱心な読者ではなかったので、その一節だけで反応したわけではなく、こちらは当時夢中になっていたホワイトヘッドがしばしばその文章のなかで、ブラッドリーに言及し、賛意を示していた。例えば、ホワイトヘッドの代表的な著作である『過程と実在』の前書きにおいても、ブラッドリーに対する親近感が述べられている。その点、『数学原理』をホワイトヘッドと共著したラッセルとは対照的であり、ラッセルはその『西洋哲学史』においても、ブラッドリーを徹底的に批判し、歯牙にもかけていない。ヘーゲルに影響を受け、「絶対的観念論者」と呼ばれたブラッドリーは、ラッセル以降の論理実証主義者たちからは徹底的に批判され、というか鼻から無視されてしまったので、イギリスというと経験主義的な傾向ばかりが紹介される日本においてもまた無視されることになった。だが、ヘーゲルの影響といい、観念論とはいっても、イギリス的な奇矯とさえいえる影響のされ方で、言われなければヘーゲルの影など見てとることさえ困難である。

 そして、数十年前、古いテキストといえば、その当時の古書で買うしか方法がなかったころ、かつまた神田の神保町を歩くことが定例になっていたころ、洋書専門の崇文堂で、『仮象と実在』を結構な値段で手に入れた。その後、完全に忘却されていたと思われたブラッドリーの名前は、思わぬ場所に散種されていることがわかった。例えば、「荒地」の詩人、T・S・エリオットは、若い頃のある時期、哲学者になろうと考えており、『F・H・ブラッドリーの哲学における認識と経験』という学位論文まで仕上げていた。これは本として、村田辰夫訳で、奇特なことに南雲堂から出版されている。小説家のボルヘスはイギリス文学マニアとしても有名だが、そのエッセイにおいて、ブラッドリーをよく引用している。つまり、ブラッドリーは、ボルヘス好みの、『不思議の国のアリス』に登場してもおかしくないような哲学者なのである。より最近の例で言えば、現代思想のなかでも屈指のへーゲリアンであるスラヴォイ・ジジェクは、何かことのついでのようにどこかで批判していたが、あまりに著作が多いのでどの本か忘れてしまった。またアメリカの批評家、フレデリック・ジェイムソンはSF論を集めた『未来の考古学』の一章で題辞にブラッドリーの一節を引用していた。

 ブラッドリーは持病があり、社会的な活動をすることができず、オックスフォードのカレッジのフェローとして、生涯のほとんどを独身の隠遁生活のうちに過ごした。ブラッドリーのすべての著作はE・Rというイニシャルの人物に捧げられている。それがフランスに住んでいたアメリカ人女性であるラドクリフ嬢であることはわかっている。彼女は陽気で可愛らしく活気があり、いつも若々しく着飾っており、生涯で一冊の本も読んだことがないと公言していた。》

 

 

  (形而上学に対する初歩的な反論に答える。)

 

 形而上学について書く者は多大な逆風を受ける。この問題に関わる者は、他の問題以上に精神の平安を要求され、形而上学固有の論議に入る前に、ある種の戦いに巻き込まれていることを自覚する。研究に敵愾心をもつ偏見に直面すると、自分のなか、或いは周囲にあるそれとは反対の偏見に頼りがちになる。ここでは形而上学一般に対する先入見について述べることにしよう。恐らく、形而上学を、単なる仮象とは反対の実在を知る試み、第一原理や究極的真理の研究、宇宙をばらばらな断片としてではなく全体として捉える努力と理解することでは我々は同意できるだろう。そうした試みは、無数の反論に出会うこととなろう。そうした知識を得ようとしてもまず不可能だと聞かされる。或いは、ある程度可能だとしても、現実的価値がないとされる。或いは、いずれにしろ、古くからある哲学以上のものを求めることはできないとされる。これらの議論について順番に述べてみよう。