ケネス・バーク『歴史への姿勢』 22
超越の他の例
実のところ、この仕事は捕まえどころがない。我々は読者にそれがなにかの痕跡と考えることができないか、問いかけるしかない。明確なものをもって説得するというよりむしろ、問題を提示しようとしている。強調されているのは、思考において基本的な超越の過程は、教訓的-道徳的な文学において最も単純な形であらわれるということである。「超越」があらわれる多くの方法があるに違いない。
「四元素」、土、火、水、空気を見て、それらが「本質において」水だと決したときに、ターレスがそうした勝利感を得たのはありそうなことである。我々の推測を裏付けるような彼の著作は残っていないが、隠喩分析によって、その宇宙論的シンボリズム(いかに大きな「器」であることか)に、多くの実際的で非形而上学的なものがつけたされているかが想定され、ツェラーの次のような文章を読んで満足することになる。「リュディア王のペルシャ遠征に彼は同行しており、川筋を変えることでハリス川の横断を可能にした」これは彼の形而上学が愛国者としての行動に適ったものであることを示唆している。同様に、彼はナイル川の氾濫を説明する理論を呈示した――そして、「クロイソスの敗北の後、イオニア人に、危険として迫りくるペルシャと密接な政治的連合を結ぶよう忠告した」というのも、彼の「総合に向いた」傾向をあらわしている。「地球は一片の木のように水に浮んでいる」ということと、コスモスはカオスの広大な領域に囲われた秩序の領域だというギリシャに典型的な考え方を結びつけ、彼は多分ギリシャを、ペルシャという野蛮な海に浮ぶ一片の木として愛していたのだろう。*
ヘラクレイトス的な超越の変種は、今日では、燃えることを普遍的なイメージとし、生を燃焼の過程と捉えたローラ・リッジの『火の踊り』に認められる。強烈に燃えあがるのは火の試練であり、超越的な燃焼の光もある。しかし、この「総合」も、最終的には、詩人が全てが「調和を保って凍っている」「氷の心」に呼びかけるときに、新たな対立の基礎となる。恐らく読者は、この対立も、弁論術でいう「排中律」であっても可能ではない新たな体制とその仕掛けによって解決されるのだと言えば、我々が何かごまかしをしていると考えるだろう。この解釈では、全体の統合は儀式、調子、詩人の音楽(というのも、音楽では、テーマが互いに異なることはあり得ても、矛盾しあうことはあり得ないからである)によって完成される。同様に、エリオットの劇での聖人の発言は能動的な声(我々が働きかける)と受動的な声(我々に働きかけられる)とを、同じ声の詩的調子で述べることで結びつけていると思われる。
彼らが知っており知らないのは、行動が苦しみを受け
苦しみを受けるのが行動だということ。行為者が苦しむのではなく
忍耐が行動するのでもない
ワグナーの『トリスタンとイゾルデ』にも超越のもう一つの側面が見て取れて、僅かの魔法によって作曲家は超越的に生と死とを一緒にする。薬を飲み干した後、タントリスはイゾルデのために死に、トリスタンとして生れ変わる。その二重唱は、個々に死と共に誕生を称揚する。愛=生、愛=死と等号がつけられる。そして、等しいもの同士もまた等しいはずなので、生=死となり、悲劇的であり喜びに満ちた情死Liebestodが行なわれる。もちろん、ここには他の多くの要素が含まれている(例えば、不義の愛が喜ばしいものであると同時に罰せられるものであるという悲劇的な両義性があって、終盤の盛り上がりはこの問題を象徴的に解決することからもきている)。また、愛の二重唱とイゾルデの愛と死が入り混じった独唱では音楽的な基調が似ていることも指摘される。
ヘーゲルは、形而上学的な対立を解決する一つの方法として、歴史的過程の弁証法を用いた「超越」を行なった。我々の見るところによれば、エマーソンがアンビヴァレンスの問題を扱うときも似たような解決法をとっている。マルクスはヘーゲルのパターンを世俗化した(社会的対立は「より高次の」総合によって調和されるという考えには、明言こそされていないが神のなごり、「神の働き」が隠されているが)。彼の確立された権威のシンボルへの攻撃は、彼自ら「牧歌」風に苦難のうちにあるプロレタリアートに同一化し、血の贖いによって世界を回復しなければならないとしているために、ある種の罪を喚起する。(更に形態学的な並行関係を言うと、ベブライ-キリスト教的な贖罪のパターンとマルクスの世俗化した等価物の間には照応があって、それについてはルイ・ルージェ『政治的な神秘家』の該当個所を参照。)純粋にして単純な唯物論は、精神と物質の矛盾を、二者のうち本質的なのは物質だとすることで解決する「転倒した超越」とも「超越的な下降」とも呼べるものを考案したのである。
こうした考察によって、ある問題を単純な枠組みで扱う際に、プロパガンダ的な勧誘がしばしば必要と感じられる理由、批評家たちが教訓を「アレゴリー」、「意図の文学」、「感傷」として攻撃することになるわけが理解される。不動産景気に、神秘的な差し伸べられる手を見たホイットマン(彼は「回答者」として問題を甘んじて受け、「見えない存在」を使って物質的な現実を「迎え入れた」のである)に教訓的な感傷性を見てとる者さえいる。*しかしながら、歴史的な問題が他の方法で扱いうるかどうかは疑問である。我々が問いかけることができるのは、使われている「祈り」(その反対の罵倒)が状況の主要な要因を正確に考慮できるだけ成熟し複雑なものになっているかどうかだけである。
*1:
*こうした象徴的パターンが社会経済的文脈に投げ込まれると、そのふるまい方が驚くべきねじれをみせることがあり得る。つまり、統一の原理が均一に働いているからといって単純な一対一の対応を予想するべきではないし、逆もまた同様である。例えば、特権をもった集団が効率よく組織化され、その財産を様々な仕方で「利用する」ことにより、カトリックの統合化は結果的には分解の方向に働いていることをマルクス主義は明らかにした。
フォン・シュタインのようなドイツの初期刊行本の収集家と共に始まり、象徴的にはヘーゲルの描いたプルシャのヘゲモニーによる統合によって最高潮に達したドイツの歴史主義は、恐らく、ビスマルクやヒットラーによって政治的に成し遂げられたものの文化的基礎として役立っただろう。ここに我々はある種の一対一対応を見いだす。しかし、イギリスでは、世界的な広範囲にわたる帝国の建設が、思想家たちの強い原子論的シンボリズムへの傾向から引きだされた。この原子論は、征服した地域の文化パターンの全てを征服者のパターンに「統合する」ことに過度な熱意を示さないという強い相対的な姿勢を示唆することで帝国主義的な統合に役だったかもしれない。それゆえ、この原子論は、「なんとかしてやり遂げる」、相対論的な便宜主義を合理化し、「やぶ蛇になるようなことをしない」といった姿勢に結びついている。そして、この原子論は、「うまくいった仕事」の量的に十分な検証を経て理論的根拠を獲得したので、地域的な社会的慣行などは、異教徒に物を売る嫌悪感など「超越した」商売に対して根本的な邪魔になりさえしなければ「寛容」に対処されるようになったのである。
しかし、この解決は、帝国の搾取という観点からは強みがあるかもしれないが、地方の文化的全体では「疎外」を引き起こす。その行動の多くを脊椎に依っている進化程度の低い動物のように、彼らの文化的パターンは頭を切り取られた状態でも無様に生き残りはするが、究極的な成功(その土地の人間が自分たちの文化を「十全な形で」感じる)は、必然的に征服者の権威の象徴(商業主義とテクノロジーの制度的な実現を後ろ盾として)へと変換していく。ここで、後に述べる「疎外」について先取りしておくと、もしノスタルジアと空虚さの苦しみをなしで済ませようというなら、物質的精神的奪取に変わる社会的目的について新たな考え方をもつ必要がある。戦術的に言って、そうした力点の変化は、権威の象徴に対する忠誠の姿勢の変化に焦点化される。
*2:
*「ネッコ・アレンは、無煙炭の驚くべき、目に見えない価値を疑っていたが、今日、何千という車の所有者は、自動車における目に見えない価値の意味と重要性を発見しつつある。
クライスラー社が、アメリカに目に見えない価値を決定的に知らしめた。それは見たり感じたりできるものではない。それは、美や力、安全と同じように、具体的なものではない。だが、目に見えない価値は、車の所有者にとっては、車の材料である鉄、ゴム、鋼などより、より現実的で重要である。」
『ネイションズ・ビジネス』の広告から引用した。これはまた、「あなたが買う車の目に見えない価値を見る」ためには、「組み立てラインの向こう側、全組織の推進力である目的と理念とを探」らねばならないと語っている。この広告は神秘家の領域に入っている。我々が先に考えたところでは、ホイットマンは社会的な実体化(彼の「想像」の「官僚化」)を商売上の敵対者の間に「超越的に」友好を打ち立ててしまおうというキワーニス・クラブやロータリー・クラブにおいて達成した。しかし、この「応用技術」においては、化体、事業において教会の「キリストの身体」にあたるものは、目に見えない価値がクライスラーの車に具体化されたときに生まれる。我らが予言的な広告者は、明らかに、宗教を市場に持ちこんだ――言語的な分析をする我々に関心があるのは、この巧妙な考えは、キリストとクライスラーという似た言葉の洒落によって思いつかれたのかどうかである。