ケネス・バーク『歴史への姿勢』 36
第三部 象徴的構造の分析
.. 第一章 儀式の一般的性質
「可能な限り最上の世界」があったとしても、象徴的な修繕の必要は続くだろう。様々な経験の諸相を「位置づける」想像的概念的形象の根拠として、広大な象徴的総合物を打ち立てねばならない。このシンボリズムは社会的目的を導く。何を得ようとするべきなのか、どうやってそれを得ればいいのか、得られなかった場合どのように「断念」すればいいのか「手がかり」を与えてくれる。我々は、いかに集団がこうした象徴的構造を「利用」し、人々に耐え難きを耐えることまで要求しながら利益を上げているかを示そうとしてきた(異なった目的と必要のシンボリズムが採用されれば、耐えがたい状況は根絶されることもあり得る)。複雑なシンボリズムは一種の「精神的な通貨」であり--「銀行家」の集団はこの交換媒体を操作して利益を上げることで勃興した。彼らの努力は、意識的にこの目的にあてられる必要はなかった。上部構造の枠組みがそのように<働いていた>のであり、「意図せざる副産物」として広範囲にわたる追い立てや疎外を生みだしたのである。こうした成り行きすべてについて象徴的修繕が必要となる。
現在の社会的関心事に含まれる諸価値の多様な争いから、超越や象徴的架橋、象徴的融合への働きかけが生まれる。こうした争いは危機的状況まで高まり、その体制の諸権利と目的とがどの程度効率的に制度として実現されているかに応じて権威的シンボルの受け入れか拒絶かをめぐる几帳面な選択が必要とされる。あるいは個人の場合であれば、個人的な衝動と社会的な規範との裂け目にシンボリストとして橋を架け、超越してしまうようなこともある(その支持者が彼の偏りを共有する限りにおいて、彼の個人的な仕事は「普遍的」になる)。*
精神分析の教義や、目ざめている間の合理的な経験と眠りのつじつまの合わない遠近法とを「統合」しようとするシュールレアリストの提案に含まれている可能性がある。人間は、少なくとも、寝ているときの自己と目ざめているときの自己が根本的に解離している点で「二元的」である。毎朝毎晩、敷居を行ったり来たりし、自己同一性を変えるのである。
それゆえ、ある程度、神秘や神秘化は避けられないように思える。誰でもが「秘密」をもち、合理的な言葉の大胆さと賢明さに深い恐れを抱いている。危険なしに引きはがすことのできない眠りの「不安に満ちた被い」があっても、通常は夜中になる前に、胎児のように丸くなり、日中のファイルでなら、「雑録」と名づけられた場所に収めるような曖昧な経験に身を任せることで満足する。「表象」の「暴露」に従事したフロイトでさえ、最近の自伝的な著作で、それ以上は越えることのできない、それ以上深い意味を開示できないような点があることを認めている。
罪悪感があることで、社会的貢献をなすことで自己を「正当化する」ような宗教的世俗的な枠組みが生じ、それゆえ、社会性は「原罪」(「損失の社会化」によって帳消しにされる)をもとに働いていると言えるのだが--この感情は部分的には、眠りのなかで行なわれる象徴的な犯罪から来ていると言えるのだろうか。目ざめたときに思いだす夢ではない(というのも、意識に関与できる夢は、儀式によって解放されたり、合理的解明の「暴露」によって帳消しにすることができるから)。忘れてしまった夢、充分意識的な記憶によって把握することができないような夢である。それは意識的に行なったものと同様に我々の「経験」の一部ではあるが--意識的に記憶することなしにそうした象徴的犯罪に関わる限り、その経験は贖罪のされない犯罪として蓄積されていく。科学者、発明家、詩人たちが眠りのなかで重大な問題を解決することはよく知られている。犯罪的な違法行為もまた行なわれていると言えないだろうか。実際、眠りのなかでの不合理な、また非-合理な価値に基づいた道徳的遠近法から判断すると、<社会的に>許されているような慣習でさえ犯罪的であり得るのではなかろうか。こうしたことが、革新的な人間にしばしば見られる傾向、自分の革新性を低く見、大いに自負していい達成に対してひどく<謙虚>になることの理由を説明するかもしれない。
内省は「コスモス」の枠組みから、「カオス」の領域にまで拡がるように思われ*、両者(「意識的な」経験としての「コスモス」と「無意識の」経験としての「カオス」)の「統合」は、目ざめているときにも眠りの際の人格を完全に捨て去ることができないために、眠りに障害の出てくることがしばしばある。かくして、コールリッジのような睡眠障害者は、結果として生みだされたものが公的に流通し、市場に出すことができる限りにおいて、「コスモス」の判断基準の内部に「カオス」を秩序づけた。彼の詩に貫流している恐怖もまた、彼が「秘密」の「不安に満ちた被い」(彼独自の神秘と神秘化の核である)に近づいていたことを示している。†
眠りは死んでいることであり、ポーの死の礼賛は同じような感受性を示している。癲癇の催眠的働きによって高められたドストエフスキーの神秘的な二重性の感覚も同じ雰囲気を持っている。ヨゼフについての小説の序章で、深く眠り、死、再生の神秘を探求したマンはこう自問する。「なぜ私は青ざめ、胸の鼓動は高まるのだろうか--実際に着手したときばかりでなく、そう決めた最初の瞬間から--また、激しい心の動揺ばかりでなく、身体的恐れを伴って。」(ジイドの主人公に典型的な、犯罪の「美的な」崇拝は、象徴的な攻撃から、贖いによってではなく、意志的で、「革命的な」、犯罪は「正しい」という主張によって「解放される」。)
要約しよう。様々な理由から、人は多くの異なった情調と姿勢をもっている。それらは下位自己同一性、下位人格、「多くの声」などと呼ぶことができる。詩人は、それらを包括的な「超人格」に統一する象徴的な上部構造を打ち立てようとする。「可能な最上の世界」であっても、象徴的合併を促すような数多くの要因が存在するだろう。より深刻な階級の問題を取り除いたとしても、儀式的に統合されるべき多様な世界は残るだろう。芸術家、哲学者、道徳家、政治評論家、教育者、政治家、社会学者、心理学者はみな、上部構造による調整に大きな関心を払わなければならないという意味において「観念論的」である。*
象徴的働きは自然の傾向として統合に向かう(このことが、ブルジョア国家における、階級闘争説に対する良心的抵抗を説明する)。個人や集団が特殊な制度に必要とされる重点に「完全に一致」しない限り、自然な趨勢として、「たるみを引き締める」象徴的なやり方を探ることになる(社会主義国家の思想家や詩人が手工業者と知的労働者との、あるいは都市労働者と地方労働者との葛藤に<橋を架け>ようとするようにである。別の言葉で言えば、その境界を明確にするよりも、曖昧なものにしようとする)。
ファシスト国家主義の魅力は、実際にある分裂の状況を言葉で否定してみせることで統合への祈りの邪魔をするマルクス主義の「空位期間」とは関係なく、この趨勢を取り戻したという事実にある。マルクスが描きだした<状況>を憎み、ファシストはそのように描いた<マルクス>を憎むことで問題を「解決した」。
*1:
*ここで、闘争の超越は純粋に<象徴的な>融合としてもくろまれるので、現実の闘争は残るかもしれない。そして、「非超越的な瞬間」においては、再び圧迫を感じるかもしれない。それゆえ、詩人は純化の儀式を<反復>する必要があるかもしれない(<新たな>材料を使って、というのも古い材料は、公的な財産となり、商売として流通しうるものになっており、その創造者にとっては、疎外の要素を引き入れることになるからである)。
ちなみに、このように考えると、儀式の生産に金銭的な授受が行なわれると、創造者に対する心理学的な効果は棒引きにされる可能性があることを言っておこう。儀式は罪悪感を帳消しにする--しかし、金銭のやり取りは儀式の悔悛的価値を帳消しにする。それは信心深いカトリック教徒が、「感動的な告白」をするからといって教会に支払いを求めるようなものである。資本主義が、金銭の力によって儀式の効果を帳消しにしながら、市場の特質によって金銭で儀式化を誘い、世俗的-芸術的な儀式を増やしていくさまを見てとるべきである。常に罪が求められ、それに対応し、美的商品を供給できる達人、専門家がいるのである。
*2:
*カオスとコスモス。ウォレス・スティーヴンスの詩を思い起こそう。
私は壺をテネシーの
ある丘の上に置いた。
丘を取り囲むのは
荒れるに任せた原野。
別の言葉で言えば、形のよい壺の均整の取れた「コスモス」はそれ自体に閉じこもってはいない。そこから発散する意味が無秩序な「荒れるに任せた原野」の「カオス」を次第に組織化していく。ギリシャ人にとって、ギリシャの都市国家は、野蛮なカオスの水に浮ぶ小さなコスモスと考えられていた。彼らの創造の理論は、無秩序のなかに閉じ込められたごく僅かな秩序であるコスモスという考えに対応していた。また、ギリシャ人が合理的なもの、言語化されたものに重きを置き、無意識、非言語的、「内臓的」なものと対照的に考えていたのも同じ考え方である。
I・A・リチャーズは、意識を秩序化することで、ある種のホメオパシー魔術によって、共感的に、無意識に秩序を形成すると言った。別の言葉で言えば、怒りは翌日まで持ち越すな、ということである。スティーヴンスのイマジスト的な詩は、意図したものであるかどうかはともかく、こうした考え方に沿った主張をしていると思われる。多分、ヴォルテールがまず自分の庭を耕せと言ったとき、あるいは「慈愛は我が家から始まる」ということわざが意味するところと同じであろう。僅かな「コスモス」を組織化することで、付随的に「カオス」を組織化するのである。
しかし。
それではマルクス主義の教えを忘れていることになる。「カオス」は「コスモス」の庭に侵入し、それを我々から奪い去りさえする。
他方において、
マルクス主義者が、社会改良における「転向」理論をあざけることは間違っている。資本主義の争いを超越するためにともに働いている個人は、社会主義にそれに見合った「制度的な体裁」を与えるために、「自分の庭を耕し」、個人的な方向に「転向」し、慈善を我が家から始め、小さな壺のコスモスを組織化することは必要である。その「美徳」は、アダム・スミスの機械的な摂理に関する理論のように、自動的に生じてくるものではなかろう。「個人的な意志の行為」によって、それを「かせが」ねばならない。こうした個人は階級道徳を超越することができるので、世俗的な決定論を採るマルクス主義の用語の背後には「恩寵」の教義が潜んでいる(人々は、常に当然のことのようにこの例を取って、マルクス自身を「ブルジョア変節者」と名指している)。また、血の犠牲によって世界を救うプロレタリアートと同一化するなら、彼はその形態学を罪とその償いという一般的な線に沿って完成したと言われるだろう。
(より率直に事態を言いあらわしたいなら、資本主義は批評表現を最大限に生みだしながら発達したことに注目すればよい。批評は自己批評となることによって自己を超越する。「弁証法的には」、資本主義によって発達させられた批評は、最終的には一種の「経済的な内省」によって資本主義自身に向かうこととなろう。)
†犯罪小説や恐怖小説は、比較的無害なシンボリズムによって、詩人や読者の犯罪的、サディスティックな衝動のはけ口を与えるものだと一般的に考えられている。しかし、この説明は、ある程度正しくはあっても、全体から見るとあまりに機械的に単純化しすぎている。人間は、「余分な蒸気を出す」ことが必要な熱したボイラーでしかなくなっている。
恐怖小説は、神秘や恐れの感覚を「ただのお話」とわかっている形に具体化することで「正体を暴露する」助けとなる。それらはそれらなりのやり方で、デモクリトスが行なったようなこと、恐れを扱うことのできるほどの大きさに還元するのである。
*3:*ある情調から他の情調への移行に、「戦い」がないなら、それは単なる「変化」である。しかし、ある情調が<姿勢>となるまで拡がり、その姿勢が完全に「合理化」されると、別の姿勢への移行は異なった合理化を必要とし、「戦い」を含むことになる。我々が「光の速度で旅」できない限り、多くの手荷物をかき集め、それを作り直すことで緊急の用にあてることは無視できない仕事であるかもしれない。そうでなければ、人間は、発達の単純な段階においてばらばらのままにとどまったり、「固まって」しまったりするだろう。