暴力と三つの自然--赤坂真理『コーリング』
ここ数年の、小説や映画での暴力の特徴は、確たる理由がないことと、突発的であることだろう。そうした暴力は、恨みや憎悪や敵意を原因として説明することができない。また、言い争いによって次第に戦意が昂揚し、やがて堰を切ったように暴力になだれ込むという手順は無視される。
しかし、ジイドやカミュ以来、理由のない暴力はどちらかといえば小説に親しいテーマであり、サミュエル・フラーやゴダールから北野武やタランティーノに至るまで、突発的な暴力は映画に親しいといえるかもしれない。
この短篇集の表題作である「コーリング」にも、理由のない暴力がふんだんに盛りこまれている。主人公である彩乃は、繰り返しナイフで自分を傷つける。「私は死にたくなんかない、ただ自分を傷つけずにいられないそれだけ。癖で自分を切る人がいるとしたら、私がそうだ。」どんな癖にでも意味があるとする精神分析的な立場だって当然あるだろうが、彼女は、その癖の意味を追求しようとしない、あるいはそうしたことに興味がない。また、「メディカル売体クラブ」と仮に名づけられた秘密クラブの先輩である敬子は、パートナーである外科医の暴力になぜ自分が甘んじているのかわからない。
理由がない暴力が魅力的なテーマであるとするなら、それは、恨みや敵意を原因とする暴力が、結局、暴力によって解消されてしまうような関係をしかあらわさないのに対して(暴力によって登場人物も読者もカタルシスを得て、恨みや敵意は消え去ってしまうだろうから)、理由のない暴力は、暴力によっては清算されないようなより深いコミュニケーションや世界との関わりをあらわにするように感じられるためだろう。
したがって、我々が理由のない暴力の描かれた場面になにかしら動かされるとしても、肉体的な残酷さやその様々なヴァリエーションに対してではない。実際、多くの、内臓飛び散るスプラッター映画は、視覚的には楽しくとも暴力の背景にあるものを感じさせないし、逆に、古いフランス映画などでは、手のひらで、それこそピチャピチャと頬を張るのが、全人格を崩壊させるこの上ない暴力になり得る世界を明るみに出すことがある。
つまり、我々を動かすのは、なにを解消することもないにもかかわらず、暴力でしか関わることのできない世界、または、そのような理由のない暴力を生み出し得る世界をその小説なり映画なりが呈示していること、そして、そこに我々もまた住まっているという可能性を示唆していることであると言える。
「コーリング」に感じられる違和感は、主人公と彼女が出会った介護士との残酷な傷つけあいが、余りに抽象的に、容易に説明され、世界の呈示よりも世界の解説に落ちついていることにある。「なんで切り刻みたいの」と尋ねられた介護士は、「必要とされたいから」と答え、彩乃は「私を呼んでよ。呼ばれるだけのあなたに、呼ばれるために、私は来たの」と優しく彼を迎え入れる。
ここにあるのは、孤独な二人の人間の出会いと恋愛であり、自分を傷つけずにはいられない不可解な行為は、多分、そうした行為とは別の次元にある、いくらでも多様でありうる恋愛の一つの形に収まってしまう。二人の行為は、変った趣味の症例のようなものになってしまい、読む者は、彼らの関係を自分のものとして生きることができない。言いかえれば、自ら傷つけずにはいられない理由のない暴力がごく当たり前の恋愛によって解消されてしまう印象を持つ。
「起爆者」という短篇が、この本全体のもつ性格を象徴的にあらわしているように思える。語り手の男は、「機械的明快さが人間の曖昧に打ち勝つという事実」を証明するために、列車に時限爆弾を仕掛けようとする。彼によれば、人間の曖昧さや欺瞞性を情緒的に包み込む「緑や大地とかそういうもの」に代表される自然とは別に、機械の明快さを貫く自然、「理にかなった法則」が支配する自然がある。
しかし、機械的明快さを貫く自然を奉ずる男が犯行を決意するのは、その日が「父の日」であること、過去との因縁深い十六日であること、大工の仕事が休める雨の日であり、日曜日でもあるという、かなり情緒的な色合いの強い偶然が重なったことによる。しかも、東京駅を降りて、雨が上がり、太陽が照りつけているのを見たとき、「ああ、承認されている、俺は感じた。俺は信じた、許されている」と男は思い、爆弾を手に「あの太陽は、俺の、起爆装置だ。」と語る。男は、結局、「緑や大地とかそういうもの」に対してより敏感な反応を示す。この短篇は、「理にかなった法則」こそを奉ずるという原理が、ぐずぐずと崩れていくことを描いたものであり、男が、自分の行動を説明することに失敗する話でもあると言えるだろう。
『コーリング』という作品集は、「起爆者」の男と同じように、何かを、例えば、彩乃や介護士が自分を刃物で傷つけずにはいられないことを、幾つかのエピソードによって説明しようとするときに、情緒的な自然に陥り、失敗しているように思える。赤坂真理の真骨頂は、なにを説明しようとすることもなく、空間を満たしてゆく自然にあるだろう。その自然は、「理にかなった法則」が支配する自然でもなければ、気分とともに変化する情緒的な自然でもない。貪欲に空間を呑みこんでゆく繁茂する自然である。「水の膚」という一編がそうした貪欲な自然を鮮明に描き出している。男と女の濃厚な絡み合いは、身体の輪郭を曖昧なものにし、徐々に身体を越えて広がり、部屋を満たしてゆく。
四角い部屋のすべてが体液のような夜で満たされていて、流動質の青色の中わたしはどんどん落ちてゆく。ふたつの身体が、抱き合ったまま頭から、向きを変えながら、加速をつけて降下する。シーツは毛穴の吐く重い二酸化炭素を吸って湿り、身体を形どおりにすっぽりと包んでいる。水面はもうはるか遠く、揺らぐ小さな光の穴になって、そこで浮き沈みする自分の影をわたしたちは見ている。
この自然は、なめくじのように盲目で、わけもなく暴力的で、魅力がある。