肉声と現代の文学--保坂和志『カンバセイション・ピース』

 

カンバセイション・ピース (河出文庫)

カンバセイション・ピース (河出文庫)

 

 

 

合本 考えるヒント(1)~(4)【文春e-Books】

合本 考えるヒント(1)~(4)【文春e-Books】

 

 

 日頃何気なく口にしてしまうが、しばし立ち止まって顧みると、自分が理解しているつもりの意味とはずれてしまっているような言葉がある。わたしにとって、あるいは一般的な使われ方を見ても、そうした言葉のうちの一つに芸がある。テレビを見ていたり、あれこれの人物についておしゃべりをしているとき、つい、芸がないからなあ、などと口に出してしまう。このとき芸という言葉が意味しているのは、才気煥発であること、当意即妙であること、その場で自分のなにが求められているかを判断する(空気を読む)能力といった、むしろ機知という言葉が当てはまるような事柄なのである。

 

 だが、本来、芸とは型を習得し、それに熟練することにある。そして、芸があると言えば、型の熟練以上のなにか、小林秀雄の言葉(『考へるヒント』)を借りれば、「型に精通し、その極まるところで型を破つて、抜群の技を得」ていることを意味するだろし、芸がないと言えば型において未熟なことである。こうした芸の本来の意味が見失われてしまうのは、それがごく限定された分野でしか生きた力をもっていないため、肉体化され、受肉された肉声と、生の声との相違がはっきりと見受けられていないためだろう。

 

 芸というものが「肉声」を得るための、唯一とはいえないまでも、もっとも確実な道筋であったことは確かである。芸とは型に熟練し、「その極まるところで型を破」ることによって始めて声を得る過程のことをいうものだろう。この声は、未熟なうちは型に埋没して聞き取ることのできないものであり、聞こえ始めたときにはその人物にしか出せない固有性を保ちながら、その芸そのものを体現する普遍性を得ている、そうしたもののはずである。こうした声が近現代文学からは失われてしまった。

 

 だが、志ん生文楽、小さんや談志の落語では共感をもって受け入れられる与太郎や小言ばかりの大家や吉原通いの止まらない若旦那などの人物がなぜ小説に描かれると嘘くさいものになってしまうのだろうか。それには芸能に特有の時間というものが大きく関わっているように思われる。例えば、どんなに広いレパートリーをもつ落語家でも(能や歌舞伎の役者でも同じことだと思うが)自家薬籠中のものとしている噺は二十、三十もいくかどうか、まして型を破って群を抜くような噺は十近くもあれば大変なことだろう。

 

 つまり、十に満たない噺を三十年、四十年かけて、あるかないかもはっきりしない完成に向けて練り上げる時間が与太郎や大家といった人物を、単なる型でも登場人物でもない、演者の生存の様式の一様相のようなものに変化させるのである。多分、芸における声とは、型の修練と、同じ登場人物の同じ生を繰り返し生きる膨大な時間との組み合わせによって獲得されるものなのであり、そのリアリティなどは声のもつ生存の様式で支えきることができなければならないのである。そうした執拗な繰り返しがないために、そしてあえてそれらを切り捨てることで近代的なものとなったのが小説であるために、小説は嘘くささをぬぐい去ることができない。

 

 名人の普遍的でありながら具体的で熟練した声とは言えないまでも、老人に独特の声があるとすれば、それは彼らが自分の生を毎日繰り返し生きてきたことでできあがった、そうであるしかない生存の様式を生きているためである。ある種の老人たちは、芸や時間というものが生みだすことのできる声に対する郷愁と距離感とをあらわにしているように思われる。

 

 いまと言っているうちにも過ぎていく時間とそうした時間を意識させてくれる仕掛けとしての文明についてだけ、それこそ執拗に書き続けた吉田健一は、近現代では珍しい、芸を身につけた作家の一人だと言える。晩年に近くなってかなりな量の小説を書いたが、そこには本当らしさなどはなく、時間と文明についてしか書いてこなかった結果得た生存の様式が保持する声のリアリティだけがある。

 

 保坂和志の『カンバセイション・ピース』が描き出すのは、あらゆる行動や思念が透明な薄皮のような軌跡を残し、その堆積や厚みのもつ様々な性質がそこに関わる人間の感覚や感情の質に影響を与えずにはいないような世界である。

 

人はつねに自分が何かを見ていることを意識して見ているのではなく、見ているほとんどの時間は「私」ないし「私が見ている」という意識をともなわずに見ているのだから、そのときに私でない誰かが私の目を借りて見ているということもあるのかもしれない。今夜のミケはやけにこのL字の角から外の様子をうかがっているけれど、ここにかつて生きた猫たちがミケの耳やヒゲを借りているのかもしれないし、そうやってこの角に私を誘うことで、五官を持った私の体が記憶して再生するこの庭を思い出したいという思いを伯父や伯母が実行しているという可能性を否定する明確な根拠が私にはない。

 

 

 こう考えれと、かけがえのない固有性をもちながら普遍的でもある声を獲得するのに型が必用な理由も幾分明らかにされる。つまり、型を極めるとは、同じような繰り返しを積み重ねてきたいまは亡き先人たちのまた再び声を出したいという思いを妨げないための用意をしておくことなのである。