ムーミン谷のパスの精度--トーベ・ヤンソン『たのしいムーミン一家』
私は『ムーミン』は昔からわりと好きである。しかし、この「昔からわりと好き」というのはテレビで放映されていたアニメの『ムーミン』のことで、なにしろいつ頃の放送だったのかも憶えていないので、いまでも好きかと聞かれると答えに窮してしまうのだが、なにかの折りに『ムーミン』の話がでたとき、アニメと原作とはまったく違うこと、姉と弟の二人で書いた『ムーミン・コミックス』の存在、原作者のトーベ・ヤンソンが『ムーミン』以外にも優れた小説を書いていること(こちらは私はまだあまり読んでいないのだが)、などを知って、それをきっかけにして読んだムーミンの原作本やムーミン・コミックスについては好きだと言える。
そこには、ある意味、穏やかな風景が広がっている。童話や昔話のたぐいでさえ、幼年から大人に、貧乏から裕福に、不幸から幸福に、独身から結婚にと生きていくことに伴う変化をたどる話が少なくないが、『ムーミン』の場合、必ずといっていいほど物語は平穏なムーミン谷の生活から始まり同じ平穏な生活にもどって終わる。そうした意味で、ムーミン谷は、確かに永遠のまどろみのなかに安らっている。
講談社文庫のムーミンシリーズには、まず最初にムーミン谷の地図が載っていて、それを見るとムーミン谷は別に離れ小島にあるわけではなく、地続きに他の世界とつながっている。実際、コミックスの『黄金のしっぽ』では、黄金のしっぽが生えてきたムーミントロールに対してファンレターは来るし、新聞には書き立てられるし、しっぽについての権利問題を取り仕切るマネージャーが登場するし、どこともしれない場所にちゃんと社交界があってパーティーが開かれる。
また、『ムーミン谷の気ままな暮らし』には、「正しい市民の会」のメンバーなるものが来て、「ムーミン谷はどうもまだまだ発展途上という気がしますな」と、住人たちの目覚めを促す。しかし、それらはみな、いわば外野からの野次のようなもので、直接ムーミントロールたちのフィールドに入ってくることはない。そうした野次に対して彼らは浮き足だったりするが、解決はその野次の相手をやっつけたり、言葉でねじ伏せたりすることにはなく、浮き足立つ前の自分に戻ることにしかない。
ムーミン谷の世界は、私にはある種のスポーツを連想させる。ヤンソンの多くの小説を訳している冨原眞弓によれば、ムーミントロールやスナフキンというのは固有名詞として使われているが、文法的には普通名詞で、ムーミントロール族、スナフキン族をも同時に意味するそうだ(『ムーミン谷へようこそ』による。ちなみに、スナフキンは実は英語名の転用で、スウェーデン語で言うと「スヌスムムリク」となるらしい)。
それぞれの個人であり種族である者たちがその特性に応じて自分のポジションに立ち、ムーミン谷のルールに従って、言葉を交わし、行動するわけで、それゆえ、言葉や行動の意味にかかる比重は非常に軽いものになっている。というのも、意味は反省に、反省はルールの変更に赴きがちなものだからである。
『たのしいムーミン一家』で、ムーミントロールは魔法の帽子のなかに入ってしまったため、「太っていた部分は、みんなやせてしまい、やせていた部分は、のこらず太って」、変わり果てた姿になり、仕舞いにはスノークやスニフやスナフキンたちにぼこぼこに殴られてしまう。そこにムーミンママが登場する。
「だれも、ぼくを信じてくるものはないのかなあ」
「よく見てください。ママ。あなただったら、あなたのムーミントロールが、わかるはずです」
ムーミンママは、注意深く見つめました。そうやって、とても長いこと、おびえきっているむすこの目の中をのぞきこんでいましたが、さいごにママは、しずかにいいました。
そのとき、ムーミントロールのすがたが、かわりはじめました。耳と、目と、しっぽは、ちぢみはじめ、鼻とおなかはふくらみだしました。こうしてとうとう、むかしのムーミントロールにもどったのです。
「もうだいじょうぶよ、ぼうや」
こういってママは、つけくわえました。
「ね、なにがおこったって、わたしはおまえが見わけられたでしょ」(山室静訳)
ムーミンママの一言が、魔術的な効果をもたらすわけだが、ここに母親の息子への愛情の発露とか、それがもたらす奇跡のようなものを考える必要はないだろう、なぜなら、まさにこの危急のときムーミンママの愛の力が発揮されるというものではなく、ムーミントロールに対し常に変わらぬ愛情を注いでいるのがムーミンママで、それがムーミンママのポジションだからである。
むしろ、これはとても通りそうにない狭い場所に放ったパスが、このタイミングこの速さで送ることによって相手に届いたときの快感に似ている(なにしろ、どれだけでも話を引っ張れそうな魔法の威力を、たったの一言で無効にするのであるから)。つまり、『ムーミン』の魅力は、まあ誰がどのような反応をするかはわかっているようなものだし、結末もわかっているなかで、交わされるパス(つまりほとんど意味のない軽い言葉)の躍動にあると思われる。論理的な説得や力による決着といった肉弾突行じゃなく、あくまでパスを回していく点にある。
「現代的な」小説では、パスを受ける相手がいない、パスが必ずそれてしまうというタイプのものが多く、我々はムーミン谷に住んでいるわけではないのでそれもしょうがないことだが、眼のさめるようなパスの送り手やどんな暴投も受け止めてくれるような受け手のプレイを楽しむことも小説の愉しみではないかと思われる。
第二の場合:登場人物の何気ない言葉や行動が、その位置とタイミングのため、魔術的な効果をあらわす。