シネマの手触り 7 キン・フー『侠女』(1971年)
脚本:キン・フー
撮影:ファ・フィイン
音楽:うー・タイコン
ロ・ミン・タウ
出演:ミュー・フォン
シー・チェン
パイ・イン
ティエン・ポン
カイ・チャオ
清朝はじめの文人、蒲松齢の『聊斎志異』のなかの同名「侠女」という短編が原作である。蒲松齢は十九歳のときに県試、府試、院試に続けて合格して秀才の名をほしいままにしたが、その上の卿試は幾度受けても失敗し、72歳でようやく貢生という科挙試験の二つ手前の身分にまで到達したが、科挙にはとうとう挑戦できないままに終わった。72歳まで試験を受け続けたのであるから、官僚への道はあきらめきれなかったようであるが、中国四大奇書の一つとされる『聊斎志異』を残し、後世にまで大きな影響を与えたのだから、もって瞑すべきだと他人は思うが、本人はそうもいかなかっただろう。万年落第生の蒲松齢に親近感をおぼえた安岡章太郎は、『私説聊斎志異』という著作をあらわしている。
「侠女」はこんな話である。顧生は広く文芸に通じていたが、家が貧乏であり、母親が年寄りだったもので、書画を書いて礼金を受け取る商売をしていた。その日暮らしだったもので、妻をもつこともできなかった。
そんななか、空き家であった向かいの家に、老婆と娘が移り住んできた。娘は年は18,9ですらりとしてみやびやかな美人である。この家も貧しいようなので、顧生の母親がそれとなく一緒になることを勧めてみるが、娘は黙ったままで不承知のようである。それでも、家の仕事は手伝ってくれるし、顧生の母親が病気になったりすると、いやがりもせず身体を洗ったり薬をつけたりしてくれる。そんななか、顧生は隣村から絵を求めにきたという美しい少年が数日おきに現われるので、親しくなり、お稚児さんにして懇ろになった。
一方、硬い態度で干渉を許さない様子であった娘があるとき笑いかけてきた。許されたように感じた顧生は挑みかかり、枕を交わしたが、娘は「一度は、いいけど、二度はいけませんよ」と再びもとのような硬い姿勢に戻った。しかし、家の仕事を手伝ってくれるなどは以前と変わらなかった。その後、再び「あなたとの縁は、まだ切れていないの。運命ね」と再び心を許すようなそぶりを見せたのだが、折悪しくお稚児さんも現われて、暴言を吐いて、言いふらしてやる、と息巻いて逃げようとする。娘が着物をめくり匕首をとりだして宙に投げつけると、白狐がどさりと音を立てて落ちてきた。
幾月かたって、娘の母親が死んだので、顧生母子はできるだけ丁寧に埋葬してやった。それからしばらくたち、娘は子供ができたと報告した。顧生のために子供は産むが、夫婦ではないので世話はできない、乳母を頼んでくれというのである。さらに幾日かがたった夜中のこと、顧生のもとに娘が不意に訪ねてきた。手に革袋を提げていて、中には血だらけの男の首が入っている。役人である父親を陥れて殺した仇なのだという。そして、あなたは福がなくて、長生きはできないけれども、子供は家を繁栄させるようになるでしょう、大事に育ててください、というと忽然と姿を消した。実際、顧生は若死にし、子供は家を栄えさせた。
この短編をそっくりそのまま、それも3時間の映画にして無駄なところが少しもないのであるから、キン・フーの力業にはすさまじいものがある。娘の父親は宦官がはびこる王朝に逆らって殺され、彼と志を同じくする二人の将軍が娘の逃走と闘争に手を貸していること、そしてさすがにお稚児さんと白狐の場面は省かれているが、顧生の店をたびたび訪れる男は、密偵の役割をしている。それに娘と将軍たちをかくまい、剣や体技を教えるのが深山の寺の坊さんだというのが相違点ではあるが、それらの要素がこの映画をアクション映画たらしめている。
それでいて、『聊斎志異』にあった謎めいた雰囲気は少しも損なわれていない。娘はぎこちないほほえみは洩らすものの、硬い表情を崩さずに、子供を残して最後には去ってしまうし、最後の最後まで場面は不穏な雰囲気を漂わせており、このままでは終わるまいというサスペンスを醸成して、実際にそのまま終わることはない。付け加えていえば、若き日のサモ・ハン・キンポーが最大の敵の部下であり弟でもある役で登場する。それに、これも終盤近く、ソラリゼーションの場面は、少なくとも始めて私にとって法力というものを説得力のある形で描いて見せてくれる。