一言一話 99

 

弁天小僧

 あの芝居は私にいわせると徳川末期の町人趣味が最も色濃く現われているもので、そもそも女装した男子が、刺青の肌ぬぎになってゆすりかたりをやるというのだ。観客は女形という約束で、男性俳優でも女性と思い込んでいると急に、あられもない姿になるのでセックスの混乱を起す。一体男としての美を感ずるべきか女性としてのか。あれこそ性倒錯の走りというべきであろうが、じつに巧妙な悪戯で、私のような悪戯好きの人間にはまことに興味のある演劇だ。三島がそれを演じたのも多分、例の若年にして洩らしている「鬼面人を驚かす」という考えに基づくものであろう。「青砥稿花紅彩画」というこの芝居では大詰になって弁天小僧は寺の屋根の上で多勢の捕手にとり囲まれて立腹を切って、まことに派手に打ち果てるのである。この立腹ということはサムライよりもむしろ町人たちの憧れの的であっただろう。つまり、サムライは儀式が好きだから従容として正座して腹を切るが、立腹というのは起立したまま腹を切るので、あまりサムライ的とはいえない。しかし講談の世界などではこれがよく出て来て、サムライの勇壮さをいやが上にも増大させているのだ。つまり、これは非常に切腹としては難しいもので、よっぽど豪毅な人間、意志力、体力のある人間でないと不可能だ。切腹して出血すれば人間は当然貧血する。血圧が急速に低下して脳が貧血するのでフラフラと重心を失う。その時立っているので、重心は高いところにあり、非常に不安定である。うっかりしたら、それだけで倒れてしまう。倒れたら無ざまこの上ないので立腹を切るやつは、よっぽど自信がないと出来ないのである。倒れずに立派に最後まで腹をかき切ってその上で自ら頚動脈を切り、そこで始めて倒れるという次第だ。これが最も男らしい死というわけで芝居作者は弁天小僧にこの立腹を切らしているのだ。

弁天はもっとも好ましい神様のひとつである。