ケネス・バーク『宗教の修辞学』 4

第二のアナロジー

 

 語と非言語的な事物との関係は、精神と物質との関係に等しい。

 

 つまり、もし非言語的なものを「自然」と同一視するなら(「自然」とは言語以下のもので、言語を使用できる存在が全滅したとしても存在し続ける電気化学的な運動である)、言語的、あるいは象徴的行動は自然を「完全にする」と言われる「恩寵」に類比される。

 

 語が名づけられた事物を「超越する」というのもある一つの見方である。実際には、語そのものは物質的な「実在」で、意味がそこに「具体化している」という見方もある。というのも、語が発音され、伝えられ、聞かれ、読まれる等々は全く物理的な(完全な「運動」)次元にあるからである。あるいは、脳がどのようにしてか語を使用し、「考えている」ときには、脳の運動という物理的なものだけがあるといってもいい。

 

 しかし、語の「意味」はその物質性と同一視されない。象徴と象徴されたものの間には質的な相違がある。

 

 この二重性は、シンボルを使用する動物という我々の人間の定義に含まれるものである。人間の動物性は物質と運動の領域にある。しかし、「シンボル性」は非シンボル的なものに還元することのできない行動の次元をつけ加える————というのも、まさしくシンボルの本性において、それは非シンボルと同一化できないからである。

 

 しかしながら、この二つの領域が厳密に区別することができないことを示す注目に値する見方が存在する。もっとも明らかな例は「心因性の病気」の場合である。あるいは、完全に物質的なものである食物が、それを受けつけない伝統や「観念」の文脈にある者にとっては、激しい嫌悪をもたらすことがあり得る場合を考えてもいい。この著作の準備をしているとき、南太平洋のどこかの島の話だったと思うが、部族の誰かに魔法をかけられ、現代医学の努力にもかかわらず死にかけていた男の話が新聞に載っていた。現実に害をもたらすような物質が与えられたわけではなかった。自分の住居に帰り、部族のなかで死の宣告を意味する魔法のしるしを見つけ、それ以来病に陥ったのである。

 

 これだけのことをいって、新聞記者が別の話題に転じてしまったのは遺憾なことだった。少なくとも、現代の物質的な医療と、部族の者にとってはもっとも影響を受けやすい原始的魔術のレトリックとの戦いの結果がどうなったかがわからなくて残念である。しかし、結果はどうあれ、「致命的な」しるしを読み取った恐怖が及ぼした身体的惨状は、シンボルが物理的な身体にも影響を与え、それによって健康から重大な病に転ずることがあることを示している。同じように、観念が我々を元気づけることもありえて、それゆえに「ポジティブ思考の力」などという本が市場に出回っている。

 

 いずれの場合においても、象徴的操作は身体的過程に影響を及ぼすことができ、自然の領域(言語的なもの以下という意味で)は、言語的、あるいは象徴的領域によって侵され、活気づけられているように思われる。この意味において、象徴的な領域は(我々のアナロジーにおいては)「超自然的な」領域に対応している。