ケネス・バーク『動機の修辞学』 42
.. ダンテの『俗語論』
「同一化」のレトリックが「無意識」と合流する地点があって、その問題に関してダンテの『俗語論』を考えることができる。ロンギヌスの『崇高について』がそうであるように、重視されているのは詩だが、このエッセイは詩と修辞学とが交差する領域を扱っている。ダンテは、「傑出し、基本となり、洗練された(aulicum)、宮廷風の」言葉を欲していた。栄誉、権力、品位、栄光——これらが彼が完璧な詩的媒介を探し求める際につきまとう言葉である。「基本となるcardinal」というのは、(蝶つがいの)「中心」と言い換えることができるが、枢機卿という教会に関する意味合いも認められる。「傑出したもの」とは、権力によってとともに(potestate illuminati)、正義や博愛によって傑出したもの(alios et iustitia et caritate illumimant)である。恐らく、ダンテはここで、キケロ流のスタイルとその役目についての考察に従い、一つのスタイルにまとめられるべき重要な諸要素を探しているのである。しかし、なかでも我々の目的にとって注目すべきなのは、詩について理想的な言語の四つの構成要素が、すべて強く位階的な意味合いをもっているところにある。
教育によって与えられる二次的な会話能力と、「子守の真似をすることで規則性もなく獲得するより早い時期の言葉(quam sine omni regula nutricem imitantes accipimus)」を比較して、彼は両者のうち、一般的なもののほうがより高貴である("harum quoque duarum nobilior est vulgaris")という。「高貴さ」と「一般性」を同一視するとは、ほとんど奇想と言えないだろうか。(先んじた奇想ではあるが。)いずれにせよ、ロンギヌスが言語に緊張を求めたように(語を強めたり動かしたりすることで)、ダンテは更に問題を先に進め、そうした効果は幼児の頃から使用している「自然」(彼自身の言葉)に思われる言葉づかいを用いることで最もよく得られるのである。
「幼児期」といっても、幾つかの「幼児期」が存在すると言える。しゃべれない幼児にも、非言語的な時期と(感覚経験は直接的なものだけで、言語を越えている)、物事の複雑さは朧気に直観しているが、それを言葉として明確にできない(つまり、シンボルとしては「謎めいている」)「無意識」の時期とがある。かくして、幼児期に学んだ会話能力に「高貴さ」を認めるダンテは、その用語法のなかで、「無意識」と「同一化」のモチーフについてその輪郭を描いているように思える。
実証主義と神話を混合し、ダンテは、バベルの塔を建造するのに必要な専門的多様性を、様々な言語の勃興に帰している。職業や専門によってそれぞれの言語があり、労働の分化は言葉の多様性をつくりだす。そして、多分、神学のラテン語が頭にあったのだろうが、知的性質の専門化が高まれば高まるほど、言語は野蛮になるのである。
ダンテが、幼児期に学んだ言語に「より高貴な」ものを探り、「俗語」にそれを発見したことは、D・H・ロレンスが『チャタレー夫人の恋人』で具体化したことを、言語選択の原理において見事にあらわしている(あるいは戯画化していると言うべきだろうか)。ロレンスもまた、教育より下層に潜む、より原始的な幼児期の言葉を開拓しようとしているのではないだろうか。「無意識」には「高貴なものが」あるように思われる(ニーチェの「貴族的な」ブロンドの野獣は際だって「退行的な」イメージであり、無意識的に行動する子供を神話的に英雄化した)。
実際には、ロレンスとニーチェにおいて求められているのは、傑出した、基本的な、洗練された、宮廷風のものであるよりもむしろ自然のままの紳士のようなものだった。ダンテは幼児−無意識の規範を位階的な卓越性の規範に結びつけた(純粋に理想的なものではあるが。混乱が起きていないなら、イタリアの政治的法的制度のなかで語られたはずの言葉だけを求めていることは彼も認めている)。ロレンスの位階は、カーライルの系統に沿った本質的に「右翼的な」ものではあるが、広大な建築学的対称の弁証法と同一視はされない。その上、太陽崇拝は暗黒の崇拝に変わった。
だが、彼の意図をダンテと突き合わせ、幼児期の、<文法>の外で学ばれた言葉に訴えかけることで、言語を一新する試みと見たとき、ロレンスが性交を扱う際の「卑猥な」言葉はポルノグラフィーとしてではなく、より敬虔な動機に従っていると考えられないだろうか。情交になると、メラーズは方言を話す。一般的な「文法」に反し、「社会」で学ばれる方言は、ロレンスにとって、真に自発的な子供時代の言葉であった。その意味において、チャタレー家に代表される文化的に頽廃したもったいぶった言葉より「より高貴な」ものであった。そして、「卑猥な」語の使用は、方言の使用にあらわされた原理の敷衍であった。性交の際の「卑猥な」語とは、一種の「幼児言葉」だったのである。
恋人同士の愛情を意味するものとしてこうした言葉を使用することは、かくして、子供と無意識双方の「揺籃期」に訴えかける(「無意識」は、禁忌に対する抵抗を打ち破る限りにおいて満足すると思われる)。「卑猥な」語の選択には、また、「排泄」の両義性への無意識な訴えかけも存在する。性的なものの内密は、かくして、退行的に排泄の内密と結びつくもので、フロイトは幼児の経験においては両者は混じり合い、その幻想においては、内密な身体の働きや部分が混同されることもあり得ると言っている。ロレンスは無意識を「自然に」満足させる、より情動的で、より「高貴な俗語」の一変種を目指したのである。