ケネス・バーク『宗教の修辞学』 2

1 一般的語とロゴスとしての語について

 

 我々は一般的な「語」(低次)と、大文字の「語」(ロゴス、賢者の一言)とのアナロジーに関心をもっている。「一般的な語」はまず、自然主義的な、経験に基づいた指示物をもっている。しかし、類推によってより高次の次元、「超自然的なもの」を指すのに用いられることもあり得る。「超自然的な」領域が存在しようがしまいが、そのための言葉は存在する。この言語活動には、ある逆説が存在する。というのも、「超自然的な」領域を示す言葉は必然的に、我々に親しみのある日常的な経験の領域から借りてこられるものであり、一度そうした用語が特殊な神学的目的のために発展してしまうと、順列が逆転してしまう可能性がある。借り手から言葉を借り返し、「超自然的な」意味合いを与えられてしまった言葉、本来様々な度合いで世俗的であった言葉を再び世俗化することになる。

 

 例えば、「grace」という語を考えてみよう。本来のラテン語ではそれは純粋に世俗的な意味をもっていた。好意、尊重、友愛、偏愛、奉仕、恩義、感謝、報酬、成果。かくして、gratiisあるいはgratisは、「対価のない親切などない」などと意味される。異教のローマにあっても「神に感謝」と言うことはできた(dis gratia)————そうした初期の使い方が後になって神学的な教義に使用されるきっかけになったのは間違いない。しかし、いずれにしろ、一度言葉が社会的関係の領域から「神」と人間との超自然的な色合いに染まった領域に翻訳されると、語源的な条件づけは逆転し、文学的スタイルや女性の振る舞いの「優雅さ」を言うときのように、神学的な用語が結局は美的に用いられることがあり得る。

 

 別の明らかな例を挙げよう。

 

 「創造する」という語は、インド-ヨーロッパ語の根をもち、単に「作ること」を意味するだけでなく、ギリシャ語の「強さ」や「完成」(kratos,kraino)といった語から発する意味合いをもっている。神学では、それは無からの生産を意味するようになる————そして、それが今度は半世俗的な意味合いにおいて、詩的生産において(コールリッジの言葉で言えば)「創造のおぼろげな類同物」としてあらわれてくる。

 

 「精神」も似たような言葉である。「息」という意味からアナロジーによって超自然的な意味合いをもつようになり、それが再びアナロジーによって気質や体質をあらわす世俗的な用語として使われることとなった。

 

 こうした語の過程は、プラトンの対話編にある上方への過程と下方への過程のモデルを与えてくれる(この形式については、後によりしっかりと考えることとなろう)。

 

 「超自然的な」ものを指す語が、純粋に経験的な現象と考えられる「自然な」言語の領域に、「アナロジー」によってロゴロジー的に変容されるとするなら、こうした意味における「アナロジー」は、実際にはある種の「脱アナロジー化」だということになろう。あるいは、新たな次元がつけ加えられることがなければ、そう考えられよう。神学的なアナロジーが宗教的教義を引き継ぐために語につけ加える新たな次元には、ロゴロジーによる正当性しか存在しない。そこにある意味は、言語が「自然に」もつものではなく、実際には自然に「新たな次元」がつけ加えられている(この考察は、恩寵が自然を完全なものにする、という神学的言明とロゴロジー的に等価である)。

 

 言葉が非言語的な自然を「超越する」ことについて、もっとも手早く簡明に理解するには、実際のを用いてなされる作業と、「木」というを用いてなされる作業との顕著な相違を考えることである。言葉の上では、語句を修正するだけで「一本の木」を「五千本の木」にすることができるが、同じ結果を自然において得ようとするなら全く違った手順が要求される。言葉の上では、「暖をとるために木を切り燃やそう」と、たとえ木がなくとも言うことができる。あるいは、木を指して一般的な木を意味するにしろ、特殊な種類の木を指すにしても、我々の語が唯一無比な個別性を「超越」しているという事実は残る。そして、もし「木」という語の後にアポストロフィーをつけ、所有形式で「木の」という語を得ると、それはある木が幹、枝等々を「所有する」というのとは全く異なっている。最後に、「tree」という語は「knee」、「be」、「see」と韻を踏んでおり、連想の秩序は実際の木が物理的に結ぶ実在との関係とは全く異なっている。*

 

 

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 かくして、ロゴロジー的に言えばいっそうのこと、単に狭い範囲の用語法に止まるだけではなく(全く自然主義的な用語法は、自然に関する語が「超自然的な」ものを指すのに用いられ、アナロジーによって適用される場合に較べては「より狭い」ものである)、全範囲を経巡り、複雑な過程に綿密な注意を払うだけの根拠がある。そして、ロゴロジー的に言えばいっそうのこと、人間をごく単純に世俗的な意味において「シンボルを使用する動物」として分析するのに必要な新たな次元をつけ加えることになるので、語の借用に十分な根拠があることが認められる。次に我々はそうした借用を「割り引いて考える」。しかし、繰り返すことになるが、注意のために次のことを指摘しておこう。ロゴロジーの観点から見られたこの二重の過程は、神学にとっては何ら本質的なものではない。私が主張しているのは、こうした二重の過程を経ることによって、そうした迂回を避けて近道を通るよりも、全く世俗的な性質をもつものでしかないにしても、言語についてのより真実に近い理解に到達できるだろう、ということにある。

 

 過度に「自然主義的な」見方は、経験的な意味に限るにしても、言語の動機としてのすべての範囲を我々から隠してしまう。しかし、そうした言語的複雑性の過度な単純化は、回り道を通り、神学の弁証法で徹底して例証されているような言語原理について体系的な考慮を払うことで問題に取り組めば避けられるものである。神学は、言語の研究において、字義通りの次元だけではなく、全く技術的な種類の「超越」であるにしても、そうした次元を除外するべきではないと警告してくれる。木というには、天上における完璧な「原型」としてプラトン的な木のイデアがそうであるように、完全に事物としての木を「超越する」意味がある。それは、諸対象を含むクラスの名がそのクラスの個々のメンバーを「超越する」という場合の意味である。

*1:

*かつて私がコールリッジの詩、「老水夫長」における太陽と月のシンボリズムを分析したとき、ある学生が次のように反論した、「詩にある象徴的な太陽のことについて聞くのは飽き飽きしました、現実の太陽があるような詩を読みたいです」と。

 答え。もし誰かが現実の太陽が含まれているような詩をもちだしたら、九千三百万マイルは離れた方がいい。我々はこうして暑い夏にいるのだから、現実の太陽を教室に持ち込んだりしてもらいたくはない。

 実際、この区別はカントの用語でいう「概念」と「観念」の相違に対応させうる。我々がそれによって作物を育てる物理的対象である太陽としての太陽は「概念」と言えよう。「復讐者」であり、「壮麗なる」姿を現し、「昇る姿」は「神が頭をもたげたようだ」と言われる太陽は「観念」の領域に移っている。「シンボリズム」を強調することで、語の文字通りの意味に対する関心が鈍らされうると感じた点で学生は正しかった(批評家が物語の「シンボリズム」に完全に巻き込まれてしまうと、単なる物語としての性質を無視するようになる)。

 しかし、我々の現在の考察はそれとは異なった問題に答えるものである。事物としての木(非象徴的)と木という語(象徴)との区別は、別の場所に切断面をつくることになる。我々が考慮している「象徴的」というのは、まず第一にこの種類の区別である。別の意味の「象徴的」では(対象はその物質的条件に固有のものではない動機づけの構成要素をもっているという意味での)、自然の事物でさえ「象徴的な」ものとなりうる(概念として記述されるものを超えた観念を「あらわす」限りにおいて————ある家は建築家の設計図に概念的に描かれることもあるが、親の庇護、監禁、人間の身体等々といった観念を「あらわす」こともあり得る)。