比喩の回収ーー谷崎潤一郎『悪魔』(1912~3年)

 

谷崎潤一郎フェティシズム小説集 (集英社文庫)

谷崎潤一郎フェティシズム小説集 (集英社文庫)

 

 

 明治四十五年二月号の『中央公論』に掲載された。『続悪魔』は同じく「中央公論」の大正二年一月号に掲載。
 
 谷崎潤一郎には、汽車に乗ることが恐ろしいということを書いただけの短編があったように思うが、ちょっといまは思いだせない。『悪魔』も、名古屋からの汽車のなかで、津波のように押し寄せてくる強迫観念の恐怖のなかで、ようやく東京にたどり着くことから始まる。佐伯は大学へ通学する四年のあいだ、本郷に住む叔母の家に厄介になることになったのである。
 
 また、谷崎が地震を非常に恐れていて、関東大震災のあと、地震の少ない関西に引っ越したのは有名な話だが、大震災の遙か前のこの短編でもこんな造りの家で地震に耐えられるのか、いざ起きたときに叔母といっしょに助からないのは自分だけなのではないかと、しきりに地震の心配をしている。マゾヒズムが実際には被虐者のほうが加虐者を支配しているのだという通説が本当ならば、予期せぬときに、官能的でもない出来事に巻き込まれるのはまっぴらだと思っているかのようである。
 
 叔母の家では娘の照子、叔父が生きているころに住み込ませた書生の鈴木がいっしょに生活している。照子はなにを考えているのかわからない淫婦型の女で、二階に住む佐伯のもとにあがってきては、誘惑とも挑発ともからかっているともとれないような調子で佐伯に接し、最終的には佐伯と関係をもつ。
 
 鈴木は陰湿な男で、書生にしてくれた佐伯にとっての叔父が照子との結婚を認めてくれたこと、すでに自分たち二人には肉体的関係があることなど、本当だか嘘だかわからないことを佐伯に訴え、照子との関係を絶つことを約束させようとする。そして、いざ二人が関係をもったことがわかると、これから照子に近づきはしませんと証文を書いて出ていくのならば、目をつむりましょうと迫ってくるのである。
 
 そんな戯れ言の相手をできるかと佐伯に突っぱねられ、照子にも相手にされない鈴木はある朝学校に出たまま帰ってこず、掃除口に張りついてうずくまっている姿を見つけられる。文句があるなら、男らしく事を進めたまえ、と殴りつける佐伯の喉笛に、どうです男らしいでしょうとにやりにやりしている鈴木が刃物を突き立てる。
 
 これが『悪魔』『続悪魔』二編を通じてのだいたいの結末なのだが、むしろ私が気になるのは『悪魔』の方であり、しかもその比喩とそこから帰結する結末のなんともいえない生々しさなのである。
 
 名古屋から叔母の家について、はじめて照子に会う場面では、照子の顔が「蒸し暑い部屋の暗がりに、厚みのある高い鼻や、蛞蝓のやうに潤んだ唇や、ゆたかな輪郭の顔と髪とが、まざまざと漂つて、病的な佐伯の官能を興奮させた。」と描かれ、またその足は「はんぺんのやうな照子の足の恰好を胸に描いた。」と形容される。
 
 そして、鈴木というやつは陰険でなにをするかわかならないからねえ、などと叔母と会話をしているときに、佐伯は叔母が襟髪をつかまれて、刃物を突き立てられたらどんなだろうと想像する。
 
 「あの懐に見えて居る、象の耳のやうにだらりと垂れた乳房の辺へ、グサツと刃物を突き立てたら、どんなだろう。不恰好に肥つた股の肉をヒクヒクさせ、大根のやうな手足を踏ん張つて、ひいひいばたばたと大地を這ひ廻つた揚句、あの仔細らしい表情の中央にある眉間を割られて、キユツと牛鍋の煮詰まつたやうに、息の根の止る所はどんなだらう。」
 
 さらに、風邪を引いた照子の顔は、「寸の長い、たつぷりとした顔が、喰ひ荒した喰べ物のやうに汚れて、唇の上がじめじめと赤く爛れて居る。」と書かれ、「はんぺん」「大根」「牛鍋の煮つまつた」とさんざん比喩に使われたものは、佐伯によって「喰ひ荒らした」ものが取り戻されるかのように、照子が忘れていった鼻汁でぬるぬるしたハンカチを「犬のようにぺろぺろと舐め始め」、「口中に溜る唾液を、思ひ切つて滾々と飲み」ほすことで回収される。
 
 初期の谷崎は耽美主義と呼ばれたが、もちろんこうした描写は西欧からの影響ではあり得ないだろうし、かといって、江戸末期のデカダンスは血みどろの方向へは向かっていたろうが、こんな趣味まであったかどうか。それはともかく谷崎が趣味に耽溺しているにとどまらないところは、形容、比喩の配置から選択まで計算が為されていることにも明らかで、それがすこぶる巧妙である証拠には、久しぶりに読み返したのだが、こうした趣味のまったくない私はすっかり気分が悪くなってしまった。

死美人という模様――ポオ『リジイア』

 

ポオ小説全集 1 (創元推理文庫 522-1)

ポオ小説全集 1 (創元推理文庫 522-1)

 

 

 詩を書く際には独創性を除けば、まず第一に「効果」を考えると書いたポオは、『大鴉』を最後の連を仕上げることから始めた。最後の連が決まっていれば、最後がもっとも効果が上がるように、それ以前の部分を自由に調整できるからである。
 
 主題となるのは美であり、なぜなら美がもっとも魂を強烈に高揚させるからである。美を伝えるのにもっとも適した調子、トーンはなにかといえば、悲哀であり、つまりは恋人との死別とそれを確認するかのように告げ、最終的には決定的な宣告を下す大鴉が用いられたのだった。
 
 だが、これは詩の場合であり、知性と結びついた真理、心情と結びついた情熱などは、詩などよりも散文によってより容易に達成されるものだとも述べている。だが、作者の言葉をあまり真に受けることもできまい。
 
 美を伝えるのにもっとも適したトーンが悲哀であり、悲哀の極が恋人との死別にあるという道筋もまた丸呑みにはしかねるものである。
 
 そもそもポオのいう美はなにを規範としているのだろうか。荒野が広がるアメリカではすべてが猛々しく、自然が規範となることはなかったとおぼしい。自然はポオの作品のなかではもっぱら冒険が行われる場であって、観照が入る余地はなかった。『アルンハイムの地所』などの庭園ものは、イギリス式庭園もフランス的庭園もないアメリカで、想像力だけで庭園をつくりあげる力業であることにおいてほとんど、『ユリイカ』の宇宙論と変わりがないように思える。
 
 かといってギリシャ的な均衡が美の規範となっていないことは、作品をみれば明らかである。ギリシャ的な晴朗さとは無縁であって、しかも主題的にはローマの頽唐期、あるいは、ボードレールに愛され、世紀末デカダンスの始祖的な存在でありながら、文明の爛熟を示していないことに大きな逆説がある。
 
 確か、オルダス・ハックスレーは、二十世紀前半に書かれたエッセイで、ヴァレリーを代表としてフランスでポオの作品は非常に高く評価されているが、イギリスではあまりにわざとらしく、不自然な英語で、ほとんど評価されていないといっていた。ヨーロッパのデカダンス文学は、自らの伝統の重さに耐えかねて、腐臭を発っしているところがあるが、ポオには伝統と結びついた実質などなかった。
 
 ポオは自分の作品を『グロテスクとアラベスクな話』としてまとめたが、グロテスクとは本来古代ローマに発する人間と動物、植物とが異様な形に接続する装飾であり、アラベスクとはこれもまた植物や動物の形を取り入れたイスラム美術の幾何学的な模様を意味する。ポオはどちらとも無縁の土地で、自分の想像力だけを頼りにある模様をつくりだそうとした。
 
 模様というところが味噌であって、細部においては個人的な嗜好がいくらでも取り込めるが、全体としては幾何学的精神が必要となる。『ベレニス』や『モレラ』からこの『リジイア』に至るまで、好んで死美人のテーマが取り上げられるのは、あるいは、ポオの個人的な嗜好かもしれないが、そうした法外なことと理性とがちょうど地と模様と同じように緊密に分かちがたく織り込まれている。
 
 たとえば、この作品の主人公は若くして死んでしまったリジイアの美しさが忘れられない。そして、フランシス・ベーコンの言葉、「その均衡に何らかの奇異を持たぬかぎり、絶妙の美とは在り得ないのである」を引用して、リジイアの皮膚や髪、顔の各部分をすべて検討した結果、ありふれたものよりもずっと大きかった眼に思い当たる。しかし、それを思い起こそうとすると、いま一息のところで取り逃がしてしまう感じをぬぐい去れない。しかし、不思議なことに、それとはまったく関係のない葡萄の蔓、蛾、蝶、蛹、走り落ちていく水や大洋に彼女の眼を見いだしたと感じられる。
 
 終わることのない「心の錯乱」の結果、「私」は新しい女性を妻に迎えてしまう。しかし、結婚から二ヶ月ばかりしかたたないうちに、その女性は病に襲われ、癒えることがなく死んでしまう。しかし、あり得ないはずのことであるが、病の床についている新妻が幾度も死の床から蘇生し、やがて姿形を変え、リジイアの眼をもった女になっている。
 
 このせいぜい2~30ページの短編小説のなかで、三度にわたって引用される言葉がある。十七世紀のイギリスの神学者、ジョウゼフ・グランヴィルの言葉で、「人もその繊弱い意志の甲斐なさによらぬかぎりは、天使にも将た死にも、屈従しおわるものではない。」というものである。
 
 主人公の男は阿片を常習しているようなので、あるいは女の変身は、幻覚によるものかもしれない。しかし、いったんこの魂の不滅を受け入れると、すべてが説明されうるものとなって、物語の地となり、死美人がかたちづくる模様と切り離すことのできぬものとなる。

透視画法による狂気ーージョー・ロック、クリストス・ラファリデス『ヴァン・ゴッホ・バイ・ナンバーズ』

 

 

 

Van Gogh By Numbers

Van Gogh By Numbers

 

 

 マリンバはいわゆる木琴で、確か小学校の音楽室に置いてあって、叩いたことがあるような気がする。また、私が幼いころは、膝に乗る程度の小型の木琴は、効果音かつ小道具としてテレビでも用いられていたし、割と周囲でも普通に見られた。
 
 音楽の方でいうと、スティーブ・ライヒマリンバが好みのようで、6台のマリンバマリンバだけの四重奏曲を書いていて、マリンバの乾いた音と、微妙にずれながら反復されていく曲がよく合っている。
 
 ジャズに関していうと、ビブラフォン(要するに鉄琴です)あるいはマリンバの歴史はほぼ三段階に別れる。
 
 第1期は、ルイ・アームストロングベニー・グッドマンなどと関わるニューオリンズの香りを残すバンドやスイング・ジャズの楽団の楽器のひとつで、レッド・ノーボやライオネル・ハンプトンに代表される。二人とも奇しくも1908年に生まれている。
 
 第2期は、1920年代に生まれ、いわゆるモダン・ジャズ草創期に活躍したミルト・ジャクソンに代表され、もちろん彼はモダン・ジャズ・カルテットの欠かすことのできない存在である。
 
 第3期は1940年以降に生まれたものたちで、その先頭を切ったのは、エリック・ドルフィーの『アウト・トゥ・ランチ』やピアニストのアンドリュー・ヒルの『ジャッジメント』に参加したボビー・ハッチャーソンと、スタン・ゲッツのバンドに参加し、キース・ジャレットチック・コリア、アストール・ピアソラなどと共演し、4本のマレットを駆使する奏法を確立したゲイリー・バートンがいる。
 
 このようにほぼジャズの創生期近くから使われていたにもかかわらず、特にビ・バップ以降、つまり第3期以降、フリー・ジャズの時代を向かえると、ジャズとの相性の悪さが際立ってきた。息と直結した管楽器ではないので、ドルフィーサキソフォンがそうであるように、あるいは皮肉交じりだとしたにせよ馬のいななきの音などはなかなかだせるものではない。息の継ぎ目や音の移り変わり、息の強弱によって音の歪みやひずみをだすことはできないのである。また、打楽器ではあるが、ドラムのように異なった音色をだすこともできないし、強弱もさほど感じさせない。また打楽器としてのピアノのように、ソロでもたせる程の多彩な表情をもってはいない。
 
 要するに、ミルト・ジャクソンのモダン・ジャズ・カルテットでの演奏に典型的なように、また、ゲイリー・バートンスタン・ゲッツのバンドから出発し、その後の共演者たちの顔ぶれを見れば明らかなように、徹底的にクールな楽器であり、フリー・ジャズ的な熱量とアクションとノイズと生成とが混じり合った混沌の世界に参加することは妨げられている。
 
 このアルバムはマリンバビブラフォンのデュオで、まさに上記のような欠点を逆手にとったような、稠密でありながら、透明な音が行き交っている。アルバム名は『号令通りのヴァン・ゴッホ』あるいは『1,2,3,4,ヴァン・ゴッホ』とでも意訳すればいいのだろうか、あるいは『音律によるヴァン・ゴッホ』ととらえることも可能で、ゴッホの狂気を明確な音の連なりの響きによって浮かび上がらせる野心的な試みとも考えられる。

 

男根消失ともの喰う聖ーー『宇治拾遺物語』

 

宇治拾遺物語 上 全訳注 (講談社学術文庫)

宇治拾遺物語 上 全訳注 (講談社学術文庫)

 

 

 

宇治拾遺物語 下 全訳注 (講談社学術文庫)

宇治拾遺物語 下 全訳注 (講談社学術文庫)

 

 

 鎌倉時代前期の説話集である。権勢を誇った藤原道長の長男、藤原頼道の側近である源隆国(宇治大納言)は、高齢になるに随い、暑さをいとうようになり、夏のあいだは、平等院の南泉坊というところに籠るようになった。平等院が宇治にあることから宇治大納言と呼ばれるようになった。
 
 もとどりを結いわけるおかしな頭をして、むしろを引いて大きな団扇を仰がせながら、行き交う者たちを身分の高い低いにかかわらず、呼び集めては知っている物語を語らせ、自分は室内で横になって、大きな紙に語られていることを書いていった。天竺、唐から日本まで、貴いこともあわれなことも、きたないこと、嘘八百から利口に立ちまわったことまで、様々にあって、『宇治大納言物語』として世の人に面白がられたが、やがて散逸し、『宇治大納言物語』に漏れたもの、書き加えられたもの、その後の話などを集めて『宇治拾遺物語』とされたと前書きには書かれているが、ほとんど根拠のないのちの付けたりだとされている。
 
 『今昔物語』、『古本説話集』、『打聞集』、『古事談』などと重なる話も多く、197話のなかで『今昔物語』と共通するのは80数編に及ぶという。ただ、『今昔物語』では仏教説話と世俗的な話が截然と別たれているのとは異なり、すべてが雑多に並べられていて、仏教に関わる説話にしても、それほど説教集が強くない。たとえのちの人が付け加えたのだとしても、団扇をあおぎながら、あるいはあおがせながら、ねっころがってみちゆくひとのはなしをかきとめているようなざっかけなさがある。
 
 「滝口道則術を習ふ事」は、滝口道則が宣旨を受け、陸奥に下る際、信濃で郡の司のところを宿にした。もてなしを受けた、郡司が郎党を引き連れて出ていったあと、眠れないので起きて周辺を歩いていると、屏風を立てまわして、畳を敷き、香でも焚いているのか、香ばしい香りが立ち上って、女が横たわっている。郡司の心遣いかと、寄り添って横になって、服を脱ぎ、女の懐に入ると、股間にかゆみを覚えたとたん男根がなくなっている。急いで自分の寝所に帰ってみるが、落としたわけでもないのでどこにも見当たらない。なにも言わずに部下たちをやってみるが、喜んでいくものの、すぐ真っ青になって帰ってくる。
 
 次の日、陸奥に向けて出立したとき、後から郡司の部下が追いかけてきて、「急いでいらしたので、お落としになったのでしょう」と白い包みをもってきた。包みを開いてみると、松茸を集めたようなものがあって、ふっと消えた。そして、男根が戻ってきた。
 
 道則はつとめを果たして都に帰ると、再び信濃におもむき、事情を話して術を教えてくれるように頼んだ。できるだけお教えしようと郡司は道則を川の上流に連れて行き、流れてきたものをそれが鬼であろうがなんであろうが、抱けという。ところが恐ろしい大蛇が流れてきて、とてもでないが、見過ごしてしまった。次に流れてきたイノシシは必死になって抱きついたが、大蛇を抱けなかったので、肝心の術は習得できず、つまらぬ術を習って帰ったが、都では評判になった。
 
 仏教がらみでも、「清徳聖きどくの事」などは抹香臭くない。母が死んだので、棺に入れ愛宕山に運び、大きな石を四つ隅に置いてその上に棺を据えて、三年のあいだ、千手観音の呪文を眠ることなく、食べ物も水もとらず過ごした。するとほのかに母の声で、天で仏になったと聞こえてきた。山を下りた聖はとにかく尋常でない量の食物を食べるようになった。一般人には見えないが、餓鬼、畜生、虎狼、犬鳥、など万の鳥獣がつきしたがっていた。
 
 また「東大寺華厳会の事」では、東大寺の御堂建立の昔、鯖を売る老人が来て、経机の上に売るための鯖を置くと、変じて華厳経となり、講説のあいだ梵語をさえずったという説話などは、仏教のありがたさよりは、ユーモラスなところが上まわっている。
 
 源隆国云々の話が当てにならないとしても、集を編んだ人物が往来する人々の話を親しく伝え聞いたということはいかにもありそうなことに思える。

出来事のざわめき――中上健次『峠』(1976年)

 

岬 (文春文庫 な 4-1)

岬 (文春文庫 な 4-1)

 

 

 『平家物語』は整序されすぎているが、『源平盛衰記』や『太平記』といった戦記をはじめて開くと、海のなかに突然放り込まれたかのように、五感がすべて開かれているのを感じる。身体中の皮膚で水を感じ、海水の塩辛さを味わい、磯のにおいをかぎ、視線はいつもと違う角度で日の光を受け止める。
 
 ただ異なるのは、それが情報の海だということにある。いわゆる物語においては、決まった主人公の周りに物語を推進するのに必要な登場人物たちがあらわれ、必要がなくなれば消えていく。一方、戦記や歴史においては、登場する人物のすべてがそれぞれの物語を抱えているが、それがつまびらかにされることもあれば、なんら語られないままに消え去ることもある。我々はそうした無数の物語に一気にさらされ、それがどのような絵図を描くことになるかを注意深く感じ取らなければならない。
 
 「地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえる程だった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴きつづける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを思った。」という冒頭の文章が暗示するように、物語はかすかではあるが、執拗に流れ続いており、耳鳴りのように、自らに固有の「症候」なのかもしれない。
 
 熊野という舞台を中心に書き継がれる連作の冒頭をなすのは、まさにこの全身を、全感覚を浸らせる羊水にも似た胎児の大洋的感覚であり、それを「岬」のように突き破ろうとする強力な暴力衝動でもある。それは男根的なものとは似て非なるものである。男根的なものとは欲望を局限し、ある一定の方向に流し、最終的にはそれを支配しようとするものだからである。
 
 ここにあるのは耳鳴りと間違えてしまうほど身近な出来事のざわめきである。このざわめきのなかからもっとも原初的なものとして浮かび上がってくるのは母親と秋幸との母子関係である。しかし、この関係はなんら具体的な記憶を呼び起こすものではない。場面として喚起されるのは、すでに母親が自分の父親とは別の男と一緒になっており、その連れ子である文昭と四人で生活している状況、「殺してやる」と母親をののしっている兄の声をふすま一つ隔てて文昭と聞いている情景である。その兄はいまの秋幸と同じ年齢で、首をくくって自殺してしまった。
 
 この小説で起きるのは、光子の夫である秋幸の土方仲間であり、元船乗りの安雄が古市を刺し殺してしまうこと、父親の法事で名古屋に住む一番上の姉が熊野に家族を引き連れて帰ってくる、その姉と下の姉の美恵と秋幸とで先祖たちの墓がある岬へと出向く、美恵が幼いころに一度治ったはずの肋膜炎を再発したのか、身体を衰弱させ、精神的にも平衡を保てなくなる、秋幸の実の父親が女郎に産ませたという伝聞と、死んだ兄がうろついていた新地の「弥生」という店にいる久美という商売女が年齢的に見れば、妹であるとも考えられること、そして秋幸が久美を「すべて、自分の血につながるものを陵辱しようとしている。おれは、すべてを陵辱してやる。」と思いながら抱くことである。
 
 しかし、これらすべてのことは、ざわめきとしてあるだけで、なにも説明してくれない。兄の死の原因も、なぜ安雄が古市を刺したのかも、久美が実の妹なのかどうかも明らかになることなく、秋幸も読者も出来事の海のなかに取り残される。すべてが萌芽であり、どこに向かっていくのか予断を許さない。
 
 
 
 

『とっておきのものとっておきの話』

 

とっておきのもの とっておきの話〈第1巻〉 (芸神集団Amuse)

とっておきのもの とっておきの話〈第1巻〉 (芸神集団Amuse)

 

 

 

とっておきのもの とっておきの話〈第2巻〉 (芸神集団Amuse)

とっておきのもの とっておきの話〈第2巻〉 (芸神集団Amuse)

 

 

 

とっておきのもの とっておきの話〈3〉

とっておきのもの とっておきの話〈3〉

 

 

 『YANASE LIFE』というPR誌に15年間連載されたもので、著名人の愛用したもの、あるいは親しい人に贈ったものが、写真とともに、身近なひとによって紹介されている。
 
 たとえば、森鷗外のビールのジョッキーと葉巻切り。森茉莉によって紹介されていて、ジョッキーはベルリンで先輩の軍医によってもらったもので、ビールを注いで使うことはなく、書斎に飾っていたという。
 
 勝海舟に初めて女の孫が生まれたときに、初雛に送ったという雛屏風が玄孫に当たる高山なな子によって紹介されている。万葉集の一節が海舟の直筆によって書かれている。
 
 谷崎潤一郎が使っていた中国製の端渓の硯と筆。
 
 内田百閒のガラスの船。日本郵船の嘱託をしていたときに「新田丸」という船の進水記念品として配られたガラスの文鎮。書いているのは孫の内田ミネ。
 
 湯川秀樹有朋堂文庫。中学から高校にかけて、有朋堂文庫をほとんど読破したという。
 
 円地文子が上野池之端の京屋に注文してつくらせた朱塗りの帯箪笥。京屋はちょっと縁があって入ったことがあるが、いかんせん、こちらは朱塗りのタンスを使う様な生活をしていない。
 
 子母沢寛。「生麦事件」のとき、イギリスと交渉し、解決に当たった幕府老中、小笠原長行の「飛龍」と書かれた軸。
 
 堀辰雄。「我思古人」と掘られた古印。
 
 江戸川乱歩の手製の資料カード。
 
 泉鏡花の白梅紅梅に、青い兎が描かれた皿。
 
 坂口安吾の手のひら大のオイル・ライター。
 
 堀口大学の盃。
 
 永井荷風谷崎潤一郎から贈られた「断腸亭」の印。
 
 萩原朔太郎の、目覚まし時刻になると「宮さん」をならす時計。
 
 柳田国男の安全かみそり。
 
 澁澤龍彦のブライヤーのパイプ。
 
 小津安二郎のライカのカメラ。
 
 色川武大のレコードやビデオのコレクション。
 
 五味康祐のタンノイのスピーカー。
 などなど、ごく一部である。
 
 その人物がどんな生涯を送ったかについてはさしたる興味はないが、どんなものを使っていたかには大いに興味をそそられる、または骨董屋で何時間でも過ごせるような人間、あるいは、先日、歩いていたら、材木屋が副業として、ちょっとした家具などを手作りして売っていて、そのなかに文机があるのを見て、もちろんそんな物を置くところなどないし、そもそもフロアで畳のない生活をしているので、置ける場所があったところで、無駄になるばかりなのだが、その形だけに魅せられて、どうにかして使いようがないかな、とその後半日くらい考え込んでしまう私のようなものにとっては非常に魅力的な本である。
 

野口久光『素晴らしきかな映画』

 

素晴らしきかな映画

素晴らしきかな映画

 

 

 野口久光は1909年に生まれ、1994年に死んだ。
 
 多面的な側面をもった人で、まず映画ポスターを1000点以上も書いた。トリュフォーの『大人は判ってくれない』のポスターはトリュフォー自身のお気に入りで、来日したときに原画をもらい、自分の作品にだし、事務所にもずっと飾ってあったという。
 
 それに『レコード芸術』に毎月ジャズのレコード評を書くジャズ評論家でもあった。いまではその仕事は音楽之友社から三冊になって出版されているが、最近の私にはとても重宝している。
 
 淀川長治の盟友でもあり、映画についての原稿も多く書いた。この本は、JR東日本が発行していたPR誌『トランヴェール』で、1987年の創刊号から三年にわたって連載されたものである。「はじめに」と「あとがき」を除いた内容は次の通り。
 
1.スクリーンの女神たち
 
2.スクリーンのヒーローたち
 
3.輝くミュージカル・スター
 
4.コメディのキングたち
 スタン・ローレルとオリヴァー・ハーディ
 
5.サイレント映画の大スターたち
 メリー・ピックフォード
 
6.素晴らしい監督たち
 D・W・グリフィス
 先駆的冒険者たち
 
 VHSのビデオが普及しはじめたころの仕事であるから、もちろんそれを参照しているわけではなくて、私には想像もつかないような恐ろしいほどの元手がかかっているに違いない。
 
 蓮実重彦の悪影響で、作家主義的ではない、つまりは映画について「批評的」ではない本を読まないできてしまった。
 
 蓮実重彦自体はある時期から大嫌いになり、それからかなり時間もたっていまでは嫌いではないというところなのだが、それはともかく、淀川長治を別格として蓮実以前の世代のいわゆる「作家主義」の洗礼を受けていない映画評などは、読むに値しないと考えるなどは、まさしく悪影響以外のなにものでもなく、悪影響などは受ける方がいけない。
 
 「コメディのキングたち」でまっさきにローレル=ハーディをあげているのもうれしいところで、なぜかこの二人組は日本ではあまり人気がない。他のコメディアンの映画と違い、「現実社会、庶民社会、様々な職業人にまつわる風刺画的な作品が大部分であり、そこに人間心理の分析、その誇張した視覚的表現の面白さがつねに見せ場となっている。その点日本の一流の落語家、志ん生文楽が好んで語った名作落語の味わいを連想させる。」と評しているところなど、うれしくなった。
 
 また、アステアとジンジャーの映画は大好きだが、足下にも及ばないと思ったのは、「アステアのデュエット・ベスト5」である。
 
1."Night And Day"
 『コンチネンタル』
 『有頂天時代』
3."Pick Yourself Up"
 『有頂天時代』
4."Let's Fase The Music And Dance"
 『艦隊を追って』
5."Dancing in Yhe Dark"
 (シド・チャリッスと踊る)
 『バンド・ワゴン』
 
 それから「ソロ・ダンス」「ヴォーカル」が続くのだが、まいりました、脱帽。