大岡昇平『わがスタンダール』

 

わがスタンダール (講談社文芸文庫)

わがスタンダール (講談社文芸文庫)

 

 

 大岡昇平が折に触れ書いてきたスタンダールに関する文章を34編集めた。1936年から86年にわたっている。
 
 昭和八年(1933年)の二月に、『パルムの僧院』を読んで衝撃を受け、小林秀雄が『地獄の季節』を読んだときのように、ある本が「生涯の事件となる」ことがあるとすれば、このときの経験こそがそれであり、「籠っていた家の窓外の下北沢の冬の外光をよく覚えています。」(「外国文学放浪記」)と大岡昇平は書いている。(ちなみに「外国文学放浪記」はこの本には収録されていない。)
 
 『富永太郎』『天誅組』『レイテ戦記』など、細かな考証をいとわなかった大岡昇平が、「生涯の事件」であるスタンダールについて、まとまった著作を書かなかったのを意外に思っていた。この本にはその間の事情が記されている。
 
 『パルムの僧院』に圧倒された大岡昇平は、スタンダールの自伝である『アンリ・ブリュラールの生涯』にも魅力を感じ、訳し始めるが、三分の一ほど訳したところで、ナポレオン戦役とウィーン体制後のヨーロッパの時代を把握しなければ、スタンダールの作品全体の持つ意味はわからないはずだ、と大岡昇平特有の完全主義が顔を出す。
 
 さらにその頃ほとんど生活を共にしていたといっていい小林秀雄の『私小説論』から「社会化した私」ということが文壇の中心的な話題となり、そこにスタンダールがうまく適合しなかった。主要な作品について、また主なスタンダール論についても、翻訳がそろっておらず、それを引き受ける形になった。そのうちに第二次世界大戦が始まり、従軍した。
 
 戦争から戻ってからは、『俘虜記』『野火』、そしてそれらの集大成である『レイテ戦記』を発表し、戦後派作家として遇され、また自分の小説家としてのテーマを追うことに忙しくなり、完全主義者である大岡昇平も、海外の新発見や新解釈にまで目を通す暇がなくなり、結局時期を逃してしまったと見える。
 
 短い文章を集めたものであっても、啓発的な部分は多い。
 
 リアルなものを描こうとする努力はスタンダールにもバルザックにもあったが、自らリアリズムを標榜したわけではなかった。リアル=真実を小説で描くという主張には逆接が含まれている。小説を読む快楽が作中人物とともに生きるという幻覚にあるならば、たとえ作者が真実と自ら見なすものを描いたとしても、読者はそれを意味と感動を与える幻影を受け取る。そして、いわゆる主義としてのリアリズムはただ一つしか傑作を生まなかったと断定する。
 

レアリスムの唯一の傑作は『ボヴァリー夫人』だけである。これは周知の様にロマネスクな夢に憧れる田舎娘が現実に破れる話であるが、この崩れて行く夢を通じて描かれた現実だけが、真に裸な真実の「幻影」を与えるのである。そしてこの作品には後継者がない。主題が繰り返し得ないからである。(「『パルムの僧院』について」)

 

 
 もうひとつ、意外な思いをする箇所をあげれば、「明治のスタンダール」という明治にスタンダールに言及した文献を紹介していく文章のなかで、「日本で鷗外ほどスタンダール的な作家を知らない」と述べている。確かに二人とも相応の時間、軍に属しているし、簡潔、明瞭な文を書くことでも共通しているが、鷗外はスタンダールほどロマンチックかしら。坂口安吾などのほうが近しい感じもするが。明記はされていないが、「明治のスタンダール」ということで、明治の作家に限定しているのだろうか。だとしても鷗外かな?
 
 スタンダール大岡昇平に興味がある方はぜひご一読を。

マンディアルグ『ボマツォの怪物』

 

ボマルツォの怪物 (1979年)

ボマルツォの怪物 (1979年)

 

 

 澁澤龍彦マンディアルグの好きな文章を集めた。次の6篇からなる。
 
ボマルツォの怪物
黒いエロス
ジュリエット
異物
海の百合
イギリス人
 
 「イギリス人」だけが小説で、マンディアルグが匿名で出版した、著名な作家が匿名でポルノグラフィックな作品を書くというフランス文学の伝統にのっとったものだが、果たしてこの伝統はいまも残っているのだろうか。ちなみに抄訳で、全体の三分の一程度である。
 
 「ボマルツォの怪物」はイタリアのボマルツォにある怪物めいたモニュメントが散在する庭園についてのエッセイであり、この場所の写真集のはじめに置かれる文章として書かれたらしい。澁澤龍彦も、『ヨーロッパの乳房』で紀行文を書いている。ちなみに[滞欧日記]では「草の上に腰をおろすと、秋草が咲き乱れている。のどかな庭なり。」とある。
 
 「異物」は家のなかから出てきた妙なオブジェについての短いエッセイ。
 
 「海の百合」は「砂の上に捺印したような」花についての短いエッセイ。
 
 「黒いエロス」はエロティシズムが「猥談趣味」とは異なり、悲劇的なものであり、人格の喪失や狂気に結びつくという、ある時期の澁澤龍彦によく見られるテーマだが、いまの私はさほど惹かれなくなってしまった。文章のなかで推奨されているバタイユは、『無神論大全』のなかでは、母子がともに笑うことのなかに、エロティシズムと同じ人格が崩れ去る共感の力を認めていたと思うが、そちらの方がずっと魅力的に感じる。
 
 「ジュリエット」はもちろん、サドの『悪徳の栄え』などに登場する破壊と快楽のみを追求するヒロインの名。対称的に信仰深く、貞淑なジュスティーヌも登場するのだが、彼女を善を体現するというよりは「愚かな女」だと評しているのは私も同意見。「善の聖女ならばまた別の態度、また別の高貴さを備えているはず」なのは確かだ。このエッセイにはしきりに善と悪という言葉が出てくるのだが、政治的な正しさについてはかまびすしいが、いま、誰も何が善で何が悪なのか問おうとはしていないように思える。別にマンディアルグのせいではないが、善も悪も空疎な言葉として響く。
 
 「異物」と「海の百合」がおすすめ。

魂の皮膚ーースタンダール『赤と黒』

 

赤と黒 (上) (新潮文庫)

赤と黒 (上) (新潮文庫)

 

 

 

赤と黒 (下巻) (新潮文庫)

赤と黒 (下巻) (新潮文庫)

 

 

 私が高校生のころは、完全に澁澤龍彦の影響下にあった。どれほどそれがひどかったかは、澁澤の著作に出てくる書名を書きだして、読んでは書名を線でもって消していくといったばかげた行為にふけっていたことでもわかる。むろん、彼が引用する書物は洋書も多く、書きだした書名がすっきりと消え去ることなどは決してなかった。それに、いまから考えると、悪魔学やオカルト的なこと、世紀末デカダンスにはごく一般的な好奇心しかなかったのである。
 
 いい意味でも悪い意味でも、私がオタク的にひとつのことに没頭できないのは、当時澁澤龍彦に必ずといっていいほど結びついていた「異端」へ彼を入り口にして没入することができなかったことにもあらわれている。異端を知るためには正統を知らなければならぬ、というアナクロニズムの変な教養主義のようなものを私はもっていて、いわゆる文学の名作とされていたものも同時に読んでいたのである。しかも当時は、変則的な本の読み方をしていて、不良というよりはもっとたちの悪い学校などになんの関心もなかった私は、電車のなかで読む本、一時限目に読む本、二時限目に読む本、などと毎日6~7冊の本を鞄に入れていた。
 
 『赤と黒』もそんな時期に読んだ本だが、なにしろ他方ではサドやバタイユを読んでいるものだから、刺激の点では比較にならず、どうしてもお勉強として読んでいるという意識がぬぐえなかった。
 
 ところが、今回読み直してみると、正直なところ、主人公のジュリアン・ソレルがパリに出てくるまでの第一部は少々退屈で、いったん読むのをやめて、一ヶ月ほど別の本ばかり読んでいたのだが、またなにかのきっかけで読み始め、第二部に入るや、書巻措くあたわずといった状態を久しぶりに味わった。
 
 小林正の解説によって『赤と黒』刊行までの経緯を簡単にまとめておくと、スタンダール(本名アンリ・ベール)は、1783年、東南フランスのグルノーブルに生まれた。父親は高等法院の弁護士であり、裕福な市民階級に属していたと言える。父親は熱心なカトリック教徒の王党派で、家庭教師には厳格なイエズス派の神父をつけたが、子供のスタンダールは二人に強い反発を抱いていており、迫害されていると感じていた。
 
 そんななかでスタンダールは、特に親族のなかでは三人の人間に愛され、影響を受けた。一人は、七歳の時に失ってしまった母親で、生涯母親への思慕が失われることはなかった。次に大伯母は、理想主義的でロマンティックな考えをもち、気高い行為をなにより礼賛した。最後に、「お前は頭がいいつもりでうぬぼれているが、そんなことはなんの役にも立たんぞ。出世するには女にかぎる」と忠告した叔父は、18世紀的リベルタンの流れをくむ人物だったのだろう。ちなみに、幼少期のあいだには、フランス革命が起こり(1789年)、ルイ十六世が処刑されている(1793年)。
 
 地元では優等生であったが、いざ革命直後のパリを目にすると、幻滅のあまりノイローゼになり、受験を放棄してしまった。心配した祖父のコネで陸軍に入り、ナポレオン軍に参加することになる。参事院書記官という高い地位にまでついたが、ナポレオンの失脚、王政復古によってすべてを失い、文筆家としての生活がここで始まることになる。
 
 はじめに書いたのは、ハイドンモーツァルトなどの音楽についての評論、イタリア絵画史、イタリアの各都市をめぐる紀行文などであった。次に未完に終わった『恋愛論』があり、小説の第一作である『アルマンス』の次に、1830年に刊行されたのが『赤と黒』である。1842年に死去しているから、60年弱のうちの最後のほぼ10年が小説に費やされたことになる。
 
 だが、小説家としてのスタンダールは、バルザックその他の少数にしか認められておらず、死後40年ほどたって再発見された。
 
 題名の『赤と黒』であるが、赤がナポレオン時代の栄光を、黒が聖職者の黒衣をあらわすということに落ち着いているようである。スタンダールの友人は当時、色の名を表題にすることが流行していたからだと推測したし、研究者のなかではルーレット版の赤と黒を、つまりはある種の賭けが主題になっているのだと主張しているものもあるという。
 
 製材所の息子であるジュリアン・ソレルは、ラテン語に堪能なことから、町長レナールの邸に家庭教師として住み込むことになる。金持ち階級への憎しみもあって、レナール夫人を誘惑する。しかし、関係を深めるうちに、ひたむきで純情な夫人の態度に惹かれていく。
 
 ところが二人の関係が噂となって広まるにつれ、ジュリアンはレナール家を離れざるをえなくなり、ブザンソンの神学校に入る。神学校では校長のピラール神父にかわいがられ、神父の推薦によって、フランスの政界でも重鎮をなすラ・モール侯爵の秘書となる。ラ・モール侯爵にはマチルドという娘がおり、ジュリアンとマチルドの闘争こそがこの小説の白眉となっている。
 
 二人の関係は恋愛などという安らぎを伴ったものではない。なにしろ、身体の関係をもった翌朝のマチルドはすでに「<<あたしは主人をもつことになってしまった!>>と、やりきれないほど悲嘆にくれながら、ラ・モール嬢はつぶやいた。」と反省し、ロマンチックなことを考えるまでもなく、ジュリアンの「支配する力」がどこまで及ぶのかを心配するばかりなのである。
 
 最初は高揚していたジュリアンも、相手が自分を避けていること、つまり相手をどこか満足させていないことを理解するや、友人の公爵のアドバイスにしたがって、新たな恋人の対象を見いだしたかのように降るまい、しかもマチルドとは毎日顔を合わせることを心がける。そうなると、もともとジュリアンのことを嫌っているわけではないマチルドは彼のことが気になって仕方がなくなる。
 
 さらに、マチルダが身重になったことがわかり、侯爵は激怒しながらも、二人の結婚を認める。しかしそこに、レナール夫人からジュリアンのレナール家でのふるまいと、畢竟それは偽善と野心にしたがったものに過ぎない、という告白と悲しみと中傷の入り交じった手紙が送られてきたことによって無効になる。
 
 ジュリアンはすぐさまレナール夫人のもとにおもむき、夫人を拳銃で撃つ。この銃撃は夫人を殺しはしなかったが、ジュリアンは死刑の宣告を受ける。そしてレナール夫人と再会することによって、本当の愛情は自分たちにしかなかったとお互いに認められてからは、またマチルドがジュリアンへの愛を計量することなく受け容れるようになってからは、死刑を避ける手段はいくらもあったのだが、ジュリアンはそれらの提案をすべて退け、従容と死を受け容れる。
 
 ちなみに、後にリアリズムの綱領のようになった「小説とは大道に沿ってもち運ばれる鏡なのだ。」という言葉は『赤と黒』にあるものである。確かに、この小説は副題に、「1830年代史」とあるように、王政復古下にあるフランス社会を描いたものでもあるだろうが、ラ・ロシュフーコーラ・ブリュイエールなどフランス・モラリストの系列に連なるものだと私には思える。
 
 基本的に社交界の存在を前提とするモラリストは、自分が思っていることはもちろん相手も知っており、それを知った上で、誰になにを言えばどのような効果を得られるのかといったような意識の無限の散乱を箴言として切り取る。別の言いかたをすれば、そのように踏み切らなければ、反射の反射がむなしく続くだけなのだ。終生そうしたモラリストの切断を体現してきたニーチェの次の言葉ほどこの小説の本質を明らかにしたものはない。『人間的、あまりに人間的な』の一節である。
 
魂の皮膚――骨が肉に含まれ、皮膚が血管を包んでいるように、人間がある状況を耐えられるようになるのは、魂の諸情動や諸情熱が虚栄心によって包まれているからである。――それは魂の皮膚なのである。
 
 
 要するに、虚栄心とは他者を前にした意識のありようであり、マチルドが身体の関係だけでは満足されなかったのも、ジュリアンが死を受け容れるのも、あるいは魂の皮膚が裂けていたからであり、あるいは魂の皮膚に包まれているからなのである。
 

4行詩25編

アキレスと亀

 

エレアのゼノンのおかげで

亀は意外に早く動けることがわかった

(なぜならアキレスは亀に追いつかないのだから)

だが、いかんせん、世界の歯車がかみあわないようだ

 

 

白熊

 

軍隊に冷蔵庫はいらない

と甘粕大尉はおっしゃったが

白熊をどこに置きますかと問うと

大陸の凍土の裂け目とは言いかねた

 

 

変性

 

シュレーバー控訴院長が女になる

手袋の裏は手袋

下半身は上出来だが

上半身がなじまない

 

 

四つ目屋

 

ゴシック風の扉を開け

ロマネスクの柱廊を抜け

ヴィクトリア朝の本を開くと

金泥で描かれた枕絵が一枚

 

 

鍵盤と海

 

鍵盤に慣れた彼女は

両腕を交叉させ

どこまでも続く黒鍵を追いかけて

海峡沿いの標識を見る

 

 

猫の時空

 

互いをモデルにする画家の夫と妻の小説家

その間に割り込む

猫という二人と一匹の三角関係の話を書いていたら

空間が削り節のようにはらはらと落ちた

 

 

 

山椒

 

山椒のすりこぎは

杖のように長いが

アステアが華麗にステップを踏んでも

ほろ苦い残像が残るだけ

 

 

 

嘘つき

 

嘘つき村の村長さんが

私は嘘つきだと言った

ところが彼には羞恥心がないものだから

それが本当か嘘かわからない

 

 

犬の夢

 

自分の尻尾を追う犬が

自然のコンパスだとするなら

風は渦巻いて台風となり

世界を夢見る原型となる

 

 

闇の奥

 

花見で余興をしようとするよったりが

大川近くの三囲神社に集まる

組んずほぐれつ柔軟体操

海坊主となって川をさかのぼる

 

 

騎士道ロマンス

 

チェスの名人カパブランカ

モノクロの世界に住む

ナイトが取られたとき空間は粒子に満ちて

女の膝にぬられたヨードチンキの色を知る

 

 

人生の日曜日

 

日の光と草いきれが充満した

完璧な夏の日は

かつてどこかでくりかえし経験されたので

現実だけが滑り落ちていく

 

 

雲の肖像

 

寒いのでセーターを着て

ほつれた毛糸を巻き取っていくと

身体までほどけて

残ったのは黒ずんだ雪が降りそうな雲

 

 

狂った果実

 

愛情を確かめるためには

出産には立ち会うべきだと言われて

長時間にわたる難産を見守っていると

臍の尾の先には柿のへたと熟し切ったたわわな実

 

 

魔神の領域

 

アラビアの魔神は土耳古玉がちりばめられた

ランプのなかに閉じ込められた

アラジンは魔神を解放するが

金魚鉢のなかで金魚は運命を吸収する

 

 

 

夏子の冒険

 

夏に生れたから夏子と名づけられた娘は

音痴だけれど歌が大好き

朝から晩まで歌うのは

清十郎塚は今日も雨降り

 

 

 

存在の脱皮

 

金だらいにいっぱいの水を張り

ザリガニを入れる

水がザリガニの形状をうつしとり

ザリガニの形相が這いでてくる

 

 

 

哲学者の晩年

 

ケーニヒスブルクの街路では

時計のかわりに哲学者が歩いている

理性が長針ならば判断力は短針で

倫理はみなを覚醒させる目覚まし装置

 

 

 

新春大歌舞伎

 

蛤から真珠を拾いだすこともあるわ

キャバクラ嬢の妙な慰めを受けた

気が大きくなった私は歪んだ真珠を見つけたもので

婆娑羅めいた姿で見得を切る

 

 

 

午後の背徳

 

禁断の恋を味わうときには

陰陽の力が極度に高まる

ロンドンの下宿の窓には

阿片を吸いながら悪を定義するホームズの姿がある

 

 

 

箱の話

 

世界はあらゆる禁止が詰められた箱なのだ

ここにある革のトランクは

果たしていくつめの箱なのか

開けるには高次元方程式の展開が必要だ

 

 

 

河童と整体

 

河童相伝のマッサージ店で痛む腰をもんでもらう

ぬめったてのひらはひんやりして

ゼラチンに溺れて快楽と苦痛の区別がつかなくなり

皿から流れ落ちる音がぼそぼそと音を立てる

 

 

 

禿山の一夜

 

自宅からほぼ等距離に教会と寺と神社がある

庭園にはプラトン的立体が

にょきにょきと生え

我々が禿山で過ごす夜が来ようとは思わなかった

 

 

 

コロンブスの卵

 

コロンブスの卵のたとえ話を

納得するものはほとんどいまい

なぜならそれはすでに卵ではなく

卵という理念が崩壊した姿だから

 

 

故郷

 

インド行きの船にのって港に着くころには

船倉の象の鼻は伸びきっており

ガンジス川ならともかくインド洋の広さがあっては

母国に巻き戻ることはかなわない

 

 

 

 

 

 

地獄八景ーーパトリシア・ハイスミス『イーディスの日記』

 

イーディスの日記〈下〉 (河出文庫)

イーディスの日記〈下〉 (河出文庫)

 

 

 パトリシア・ハイスミスは、デビュー作である『見知らぬ乗客』がヒッチコックに、また、ルネ・クレマンによって『太陽がいっぱい』が映画化され、ミステリー、あるいはサスペンスの作家と見られることが多い。しかし、一般作品も書いており、『扉の向こう側』、『孤独の街角』や短編の多くは小説としかいいようがない。最近では、2015年にトッド・ヘインズによって映画化された『キャロル』は百貨店の売り子と客としてあらわれた優雅な年上の女性との恋愛を描いている。

 

 私はハイスミスが大好きなので、全作品とはいえないが、3分の2程度は読んでいると思うが、『イーディスの日記』は、一番集中的に読んでいた時期に買って、上下ある2冊本のビニールに詰めたものを、おそらくは20年ほど放置していた。あるときは引っ越しに紛れてどこにあるのかわからなくなったり、ハイスミスは、少なくとも私にとっては、ヒッチコックと同じように、相当に強い緊張を促すものであるために、気分が充実したときでないとそうそう読む気になれないのである。

 

 イーディスとその夫のブレット、それに息子のクリッフィーは、ニューヨークのアパートからニュージャージーの念願の一軒家に引っ越すことになる。ニューヨークからもさほど遠くない田舎でゆったりと生活できるし、息子の教育のためにもいいに違いない。

 

 夫婦は二人とも穏健なリベラルなジャーナリストで、自分たちの新聞を発行することもできた。隣人たちも友好的で、夫の伯父ジョージが病気の身で同居することになるが、それほど手間がかかるわけでも、口うるさい注文をするわけではないので、まずは順風満帆な新生活をスタートしたといえる。

 

 ところで、イーディスには密かな楽しみがあった。革張りの厚いノートに日記をつけることである。密か、といっても、特に隠して書いていたわけではない。夫も息子も他人の日記などに興味をもつような性格ではなかったのである。書くこともごく日常的な身の回りのことに限られていた。

 

 街の人々とのつきあい、新聞が徐々に軌道に乗ること、家族とのやりとりなど日常的なことが、淡々と描かれる。上巻はほぼなにごとも起きることなく終わるといっていい。ただ小説家としてのハイスミスの絶妙な手腕は、この間、特に時間に関わる記述がないにもかかわらず、1955年から1963年のほぼ十年間が経過している。少年であったクリッフィーは、すっかり青年となっているが、なにがやりたいのかわからない、仕事につこうともせず、朝から晩まで酒を飲んでいる無気力で皮肉な男になっていく。

 

 この作品が刊行されたのは1977年のことで、この小説は時間経過の記述がないままに、1955年から1970年代のはじめまで、つまり、50年代の冷戦のまっただなかからケネディー暗殺、ベトナム戦争の泥沼化、ニクソンウォーターゲート事件ベトナムからの撤退などのアメリカの政治状況を背景として描かれている。

 

 息子のクリッフィーに顕在化していたこの一家の破綻が決定的なものとなるのは、夫のブレットが子供といってもいいほど年下のキャロルと恋に落ち、イーディスに離婚を迫ったことにある。何ごとにも穏健な彼女はその申し出を受け容れる。しかし、家を出た夫は、すでに年老い、排泄も思うように始末できないことがある自分の伯父を引き取ろうとはしない。そして、イーディスの日記における息子はすでに、外国に赴任し、幸せな結婚をして子供までいる等々と事実とは異なったものとなっていたが、それ以外のこともより現実とはかけ離れた、虚構になっていく。

 

 ジョージは薬の過剰摂取によって死に(それがほぼクリッフィーによって行われたことは、イーディスにもわかっている)、イーディスが心から愛し、尊敬することのできた唯一の人物であった大伯母のメラニーが心臓発作で死に、ますます変調を来したイーディスは堕胎を肯定するような社説を書き、隣人とは口論し、街のなかで孤立していく。そんな彼女を前夫のブレットは精神科医に見せようとするのだが、イーディスは断固としてはねつける。そもそも伯父のジョージを離婚した自分に押しつけておいて、なんで前夫が今更自分の生活にちょっかいをだしてくるのかわからない。受け容れたら最後、白い服を着たロボットがやってきて結局は自分を精神病院に閉じ込めてしまうのだ。

 

 心憎いまでに巧みなのは、この小説がイーディスとそれに較べればほんのわずかだが、息子のクリッフィーの二つの視点からしか描かれていないことにある。一人称ではないが、いわば二人に寄り添う三人称が、二人の考えていることは垣間見せてくれるが、ブレットを含めたそれ以外の人物については、なにを考えているのかまったく知らされない。読者である我々は、イーディスの主張ももっともだと思いながらも、もしも、ブレットのいうことが正しいならば、そして彼女が孤立していることは確かであってみれば、はたして彼女の異常、あるいは正常をどこまでさかのぼれるのかわからなくなっていくのである。

 

 たとえば、まだ前半の部分で、イーディスが新聞に載せようとしたが、「あまりにも斬新的、あるいは非現実的すぎる」という理由で、仲間に反対されて掲載を見送ったアメリ平和部隊についての社説がある。それは、アメリ平和部隊が八歳から十歳の児童を連れて行くことを提案したもので、というのも、この年齢の子供たちには人種的偏見がなく、どんな国の仲間ともキャンプや冒険旅行を楽しむことができるだろうからである。そしてそうした制度が確立すれば、「捨て子や私生児、あるいは問題児たちも社会にその場所を見いだ」すことになるだろう、という正論のようでありながら、いざ実行する場合には多くの問題を生みだすようなある種の薄気味悪さが漂っている。

 

 「現実と夢の世界の差は、耐えられない地獄だ。」とイーディスは日記に書き付けるが、ほんとうに耐えられないのは、現実と夢の世界の差がない場所であることをハイスミスは見事に描き出している。

地平線・乗り物・賭けーー蛭子能収論4(完結)

 

復活版 地獄に堕ちた教師ども

復活版 地獄に堕ちた教師ども

 

 

 

 身近なものを呼び寄せ、叙述の経済的な進行をショートさせてしまう蛭子マンガの特徴は「文字どおりに展開する世界」の一見無反省な受容という言葉でも言えるだろう。

 

 「私の彼は意味がない」では、「毎日、毎日、意味のない生活ばっかりで/嫌になっちゃうわ」というありがちな不平が、電話を片手に「私の彼は左利き」に合わせて裸で歌われる「私の私のかれはいみがなーい」と麻雀の「意味なしアガリ」に現実化される。

 

 「家族の清算」(『家族天国』所収)では家族関係という本来「清算」されうるはずのないものが文字どおり清算されるために、子供は物として性器から子宮へと押し込まれ、そして精液へ戻った関係がストローで吸い取られて清算される。

 

 また「地獄のサラリーマン」では「ママの言うことが聞けない子は地獄行きだよーっ」という言葉が地獄行きのエレベーターの出現を促していると言えるし、そうした言葉単位のことでいえば、題名がそのまま内容をあらわしていることが非常に多い。

 

 蛭子マンガの題名と本編との関係について考えてみると、題名は本編の思想やテーマを象徴的にあらわしているわけでも、あるいは本編での雰囲気や情緒と同質のものが喚起されるような具合に考えられているのでもない。また、楳図かずおの『私は真悟』や『十四歳』のように本編を読み進めるうちに徐々に明らかになる謎の提示がなされているわけでもない。さらには、内容と無関係なナンセンスが意図されているのでもなく、映画の題名が借りられている場合を除けば、端的に言って、内容の即物的、暴力的なまでに単純化された言明なのである。

 

 もちろん、題名が内容をあらわしているのはなんら不思議なことではなく、むしろ当然のことと言っていいが、短編作家の決して少ないとはいえない作品のほとんどが、その題名においても内容においても、比喩や象徴的な表現を頑強に拒んでいるというのは特筆すべきことだと思える。まさしく内容においてもなのであって、「文字通り」というのは比喩を認めないことである。

 

 意味のないような生活ではなく意味のない生活であり、家族をあたかも清算するごとくではなく家族を清算するのである。サラリーマンは地獄のような状況に追い込まれるのではなく、まさしく地獄行きのエレベーターに乗るのであり、私は何も考えないかのように行動するのではなく、実際に何も考えていないことが時計のような計器で計測される(「私は何も考えない」)。

 

 こうした比喩の忌避は、一面では、形骸化し紋切り型となった表現(あくまでも慣用語における意味のない生活であり、そこでの意味は生き甲斐であるとか、毎日の生活の充実感といった私生活の範囲を出ないものである)を撹乱するものであるが、他面、それが「ナンセンス」あるいは「不条理」といった形を取る場合には急速に風化されるものでもある。

 

 実際、多くの「ナンセンスマンガ」「不条理マンガ」と呼ばれていたもの(現在ではその多くは四コマ漫画に流れ込んでいると思われるが)、あるいは殊更にナンセンスや不条理を前面に出すわけではなくともこれまた大雑把に「幻想的」と呼ばれうるような、日常的な因果律に従わない作品は、「ナンセンス」「不条理」においてはその「ナンセンス」や「不条理」自体が社会的またはマンガ・ジャンル内での文脈のなかに固定されることによって、「幻想」においてはイメージのつながりの許容範囲やそれを許すそれらしい雰囲気を確定する感性の図式が(暗黙のうちにでも)設定されることで瞬くうちに固定的な図式へと堕していくのである。

 

 文脈のなかに捉えられた「ナンセンスマンガ」や「不条理マンガ」は何よりもまず「この漫画はナンセンスだ/不条理だ」というメッセージを発する。そして、それはすでに文脈のなかに位置づけられたものとしてのナンセンスであり、不条理であるから、ナンセンスがいかにナンセンスかが問われることはなくなり、ナンセンスの趣味の良さが競われることになる。つまり、すでにあるナンセンスのストックから選ばれる組み合わせの妙が狙われるだけであって、ナンセンスの産出が行われるのではないのである。

 

 当然のことながら、固定した意味をはぐらかしてゆく「ナンセンス」といえども文脈のなかに捕らえられていくのは逆らえないところで、文脈の外へ立つというのは歴史を超えて無時間的な永遠のなかに立てというようなものであるが、文脈が歴史と異なるのは、文脈はあくまでも連続的であり、共同体内での同意の体系であり、歴史は非連続的であってモードとしての新しさではない理解され得ないものが生まれる場だということである。すなわち、文脈を志向する「ナンセンス」や「不条理」は、その内容以上に形式において膠状にまとわりつき、固まってゆく意味に囚われていくことになるだろう。

 

 「ナンセンス」や「不条理」は本来そうした意味の膠着をはぐらかし脱臼させるものであったはずで、「ナンセンス」がその意味のなかに分け入り意味をフルに作動させることで意味の自壊作用を狙うものだとすれば、「不条理」は意味の偶然性、意味が持っている無意味な部分をあらわにすることにあるだろう。

 

 このことからいえば、「ナンセンスマンガ」と「不条理マンガ」は異なったものであり、「ナンセンスマンガ」は山上たつひこに代表される、マンガ=意味のシステムに熟知しており、その機械がどれだけ作動するか、意味がどこまで持ちこたえうるかについて実験した人であるだろう。それゆえ、「ナンセンス」を操る人は意味=方向感覚が優れている。

 

 ある面から言えば、「ナンセンス」は無意味の発見であるよりは無意味であるはずのところに意味を発見してしまうという徒労と快楽に満ちた繰り返しであり、『がきデカ』の「アフリカ象が好きっ」や「八丈島キョン」にしても、無意味の爆発というよりは意味との無限に反復されるかに思われる出会いによって生じる失調感に対する中和作用であるように思える。そうしたギャグで「一息入れる」ことによって、再び伸縮自在に思える意味のなかに入っていけるのである。

 

 蛭子能収のマンガは上述した意味合いにおいては「不条理マンガ」であると言える。蛭子マンガは意味の伸縮を楽しむわけでもないし、叙述や意味のシステムを縦横に駆使してそれが生み出す歪んだ世界を謳歌するのでもない。

 

 むしろ、すでにある意味、それも全く「詩的」でも「非現実的」でもない紋切り型そのものであるかのような意味、そしてそれが付帯する対象、あるいは意味の集積としての対象における意味の動きを愚直なまでに忠実にたどりながら、そうした紋切り型のなかにある意味の空点を明るみに出すのである。蛭子マンガのなかで忠実に辿られるそうした紋切り型は、もちろん、サラリーマン、家族などである。

 

 サラリーマンは多くの蛭子作品がそうであるように、苛酷な法が支配する場としてある。そこでは、多くの企業を舞台にしたマンガが描いているような組織の強大な力に対する個人の尊厳、個人がそうした組織を手玉にとることのカタルシスなどは見向きもされない。

 

 そういったことは紋切り型としてある「サラリーマン」を語る以前の、組織や資本の論理のなんたるかを心得ないあまりにオポチュニスティックな、ヒロイックな見方だと考えているかのようである(「会社には、どこも理不尽な人の使い方というのがあって大抵の若い平社員は反発を試みるんですが、それは殆どの場合、無駄な抵抗に終ってしまいます」)。

 

 蛭子マンガは「サラリーマン」はあくまでも組織に従属するものだという紋切り型から出発する。「サラリーマン」は資本の一つのコマになることによって「衣、食、住を快適に過ごすために金を得る」。

 

 それゆえ、いかに組織を円滑に作動させるかが「サラリーマン」のあるべき身の処し方であり、上司が何を望んでいるかを正確に見抜かなければならないし、上司と下役の調停にも努めねばならない。なんの意見も持たずに誰の側にもつくことができ、社内での建前が大切だから、好きではない女と結婚することも厭うべきではなく、皆がしていることと違う目立ったことをしてはならない(「蛭子能収のサラリーマン教室」『私は何も考えない』所収)。

 

 こうした一見通俗的な処世術は、それでは「サラリーマン」とは一体なんであるのか、という問いに答えが出されたときに、エアポットに落ち込むかのような失調感とともにその様相を変える。蛭子能収が出す答えは「サラリーマン」とは「死人」だということである。

 

 「それである日、私は自分の取るべき態度をこういう風に決定しました。サラリーマを続けている間はその会社の勤務時間中、自分は死んでいるんだと。その時間中なら上司に何を言われようが、死人だから文句は言えない。

   (「私のサラリーマン時代」『サラリーマン危機一髪』所収)



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 「サラリーマン」は「サラリーマン」でありながらそれとは異質なものに姿を変える。これは、集団で行動するときにはその成員の一人一人が自分の特性によって集団のために役立たねばならないという単なる処世術、あるいは緩やかな道徳といっていいものが、「私には何の特技もありません/私みたいな者はどうせサラリーマン失格ですよね」と言葉を残してダムに飛び込む「近藤」の姿によって、サラリーマンであることが実は生死が賭けられた法の支配のもとにあることがあらわになる過程に対応している(「サラリーマン危機一髪」)。

 

 出世のためには根性と忍耐が必要なだということが自ら馬になって上司を背に乗せて歩くことになり、忍耐が足りないものには死と豚の餌になることが待ち受けている(「分からなくっても大丈夫」『私はなにも考えない』所収)。

 

 家族についても同様である。家族の幸せは何と言ってもご飯を一緒に食べることであり、それゆえに、家族団欒を守るためには、もし貧乏であれば一人くらい人数を減らさねばならないし(「貧乏家族に幸せはやってこない!!」、団欒には触れてはならない禁句が張り巡らされている(「第三の親」)。

 

 こうした法はほとんどの場合、死と暴力とに背中合わせになっており、死の衝動に支配されたものであると言っていい。紋切り型であったものが一巡し、「文字どおりに」「サラリーマン」は組織の一コマであり、厳然とした自然法則のもとにあるかのように物と化す。

 

 この死の衝動が最も端的にあらわされているのが、「地獄のサラリーマン」、「狂気こうもり人間」(『私の彼は意味がない』所収)、「最後の異常者」(『私は何も考えない』所収)などに出てくるこうもりや蜘蛛、えび、ムカデの異様に肥大した姿なのであり、法はこの上なくグロテスクでありながら逃れることのできないものとしてある。

 

 それでは蛭子能収の世界は、その隅々に至るまで方に支配された決定論的な世界なのだろうか。確かに、蛭子マンガの地平線、汗、バストショットなどなどは認識のデッドエンドを、物の不気味なまでの近さを示唆している。

 

 しかしながら、蛭子マンガにはときには法に従いながら、そして必ずしも法から逃れることができるとは限らないながらも、法から脱出するための跳躍台となりうる要素がばらまかれており、それこそが乗り物、しかも常に軌道を離れ、目的地がないかのような乗り物なのである。

 

 ある時はそれは線路を直交し、畳敷きの車両の上でサンバが踊られ、「全く意味のない事を自由気ままにおこなってはたして何を得ることができるかという実験」の行われる電車であろうし、ある時は目的地も意図もないままに背景に浮かぶ「三種の神器」の一つである空飛ぶ円盤であり、とりわけアスファルトを蹴立てて疾走するボートであるだろう。

 

 蛭子世界を浮遊し、目的もなく横切っていく乗り物は、デッドエンドである地平線の規制を受けないものであり、ときには法をかいくぐっていく。乗り物と結びつくのは賭けであり、法によって課された死が死を厭わない賭けによって(「意味のない実験には死ぬ覚悟だって必要って事よ」『実験電車』)乗り越えられるかに思われる。

 

 「賭け」に参与することによって、「偶然」が「必然」ではない保証はどこにもないにしても、法の支配の及ばない偶然を垣間見る。実際、「実験電車」では、男はちぎれた男根をものともせず、崖を車両ごと這い上がり、電車はデットエンドとしての一本の直線とは異なる、地平の彼方へと去っていくのである。

 

地平線・乗り物・賭け――蛭子能収論3

 

復活版 地獄に堕ちた教師ども

復活版 地獄に堕ちた教師ども

 

 

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 蛭子マンガの地平線、およびそれを含む風景の特異性についてはすでに述べてきたところだが、視覚的な表現のなかでそうした風景の特異性に対応するものがないわけではない。それはネオリアリズムからヌーヴェエルバーグへと続く映像においてである。

 

 「私の好みは殺伐とした乾きとかクールさであってロマンではない」と蛭子能収自身言うように、フィルム・ノワールにおいて夜の闇とそれを切り取る光の様式性のうちにあった都市は、アントニオ―二やゴダールの映画においてはその殺伐とした姿を白日のもとにさらす。アントニオ―二の空虚な空間への偏愛やゴダール映画の都心からは離れているが決して田舎ではない郊外の、建築物とそれを取り巻く空間とが微妙な均衡を保っている(都市の中心ほど建物が空間を占領しているわけではなく、田舎ほど空間のみが拡がっているのでもない)ロケーションなどは、影響関係が存在するのかどうかはさておき(エッセイによれば、ゴダール蛭子能収のお気に入りの監督の一人であるらしいが)、蛭子マンガに対応するといえるだろう。


 映画とマンガの関係。手塚治虫は映画を常に意識していて大変な数を見ていたらしいし、映画によっていかにそのマンガが触発されて様々な実験が行われたかは多くの人が指摘するところである。しかし、手塚治虫以後映画によってマンガの性質まで変化してしまうほど両者を分かちがたいものとして経験したものがあるのかどうか、あるいは二つのジャンルに固有の歴史のことを考えると、手塚治虫という個人の上にその異なった二つの歴史が交叉したこと自体が幸運なことだったのか。


 いずれにしても、マンガというそれ自体では静的な絵の連なりがいかにして運動感を手に入れることができるか、という問題が手塚治虫が映画をモデルとしたときに最も重要な側面としてあったと思われる。

 

 その問題は二つの方向に従って解決が試みられる。一つは文字通り動いているもの、変化しているものをどのように描写するかということである。それは動くことによる空気の流れを細い線によってあらわすことや、同じく汗が後ろに飛ぶ様子、あるいは擬音や激しく物がぶつかったときにでる星や、駆けているときなどに舞い上がる砂埃など、各コマの内部で行われる、運動自体の表現であるよりは運動によって引き起こされる変化を可視的なものにすることによって運動感を表現しようとするものである。

 

 そのほかにも、残像を残すことによる手段があり、格闘を中心としたマンガでは有効に使われている。ギャグマンガでは手足がじたばたすることで幾本にも分かれることがあるけれども、そこでは運動感に力点が置かれているのかコミックな効果に置かれているのか微妙なところである。また、少女マンガにそのもっとも極端な形が見られる長い手足と小さな頭は、理想化された西欧人の体系を更にデフォルメしたものともとれるが、西欧化されたより広い空間における生活様式のなかでの運動感覚は腰の高さ(相対的な視点の高さ)と行動半径(手足のコンパス)の広さによってしか出せないという無意識的な判断が働いたとも考えられる(空間の広さに対抗する一つの手段としての手足の長さについては『エースを狙え!』などのスポーツ・マンガを参照)。


 こうした各コマ内での工夫とともに、第二に、コマの連鎖のなかでの叙述の経済的効果とでもいうべきものがある。運動を細分化し、分析すればするほど運動から遠ざかってしまうことは、ゼノンのパラドックスに見られるとおりで、運動のイメージは運動の全体を通して喚起される(ロブ=グリエの小説では細密な描写が、描写されているものの運動を奪い去り、ぎこちない凝固のなかに追い込むにもかかわらず、描写という行為自体が運動感を喚起するが、それはまた別の話である)。

 

 したがって、ある一つの運動のなかでどの部分を取り上げるのか、運動はどのような方向からどれだけのコマ数で扱われるべきか(コマ数があまりに少ないと不連続感を与えるだろうし、コマ数があまりに多いとすでに述べたように運動感自体が失われてしまうだろう)、が問題となり、コマの大きさの変化によるリズムづけなどにより、マンガの越えることのできない条件としてあるコマがあることによる不連続感(まったくコマを用いないにしてもページがコマの代わりになるだろうし、絵巻物にしてもある種のコマやページに当たる線が前提されているように思われる)をおそらくはこれまでのマンガジャンル(あるいはより細かくいえばそのサブジャンルである「スポーツ根性もの」、「ギャグマンガ」、「SF」等々)に固有の技法上の進展と、社会的コンテキスト(他のメディアとの関係や社会生活の速度といったようなもの)によってある程度の目安がつけられる叙法とそこに展開される運動とのほどよい調和でもって置き換えようとする。

 

 コマ単位での運動の描写とコマの連鎖による叙述内での経済的効果は実際には切り離しえないものであり、その結びつきがコマの変形(コマの変形による運動間の増大及び運動間の増大が促すコマの変容)といった実験を生み出しもする。

 

 しかしながら、大雑把につげ義春を標識にしてそれ以前それ以後を考えてみたときに、つげ義春以後においてはもはや叙法における運動の調和のとれた配分に関する共通の認識は成り立たなくなっているようである。つまり、運動のイメージがコマのつながりにおいては追求されない場合が生じ、むしろコマの非連続性から、あるコマが次のコマに経済的な効率によって流れないことからくる、一つのコマの持続性が求められるようになる。

 

 再び「ねじ式」を例にとれば、ここではメメクラゲに腕を噛まれた少年の彷徨が描かれているのだが、それはコマの連続性に基づいて描かれはせず、ひとつひとつのコマは前のコマとある一連の運動を分節する形で繋がっているのではない。無論、医者を探すということにおいて大まかな運動の方向づけはされているのだが、各コマはその運動を先送りにはせず、却って先に流れようとする運動を各コマがせき止めている。ここでの運動はどこで終わっても構わないのであり、であるからこそ登場人物が全て凝固したような印象を与えることも、経済的な連鎖から見れば関係がないと思われるコマ、流木か動物の骨か何かが描かれているコマや軍楽隊のシルエットが現れるコマが挿入されることも形式的には正当なものとみなされるのである。

 

 つげ義春が衝撃的だったのは、胎内回帰願望に彩られたノスタルジックなイメージを生み出したことにあったのではなく、ひとつのコマが持ちうる力を発見したことにあるのだと言える。それゆえに、資質としては全く異なる蛭子能収つげ義春の後に続き得たのである。逆に、このコマの絵としての完成を、意味、あるいはノスタルジックな感受性の沈殿としてのイメージとしてとらえてしまうところから、「ガロ」によく見受けられる「イメージ至上主義」が発しているのだろう。

 

 つげ義春の衝撃を上述したこととやや異なった側面から述べれば、短編マンガの再発見ということが言える。長編の雛形、胚芽としての短編なのではなく、それ固有の論理を備えた短編というジャンルが発明されたのである。物語を語る代わりになされるのは、ある種の雰囲気、存在感、あるいはより抽象的な論理を提示することであり、それを経済効率に則った(それを逸脱するにしても進行をとどめることはない)物語る行為において展開することではない。

 

 しかしながら、こうした発見の影響は功罪半ばするといえて、というのも、微妙なニュアンスや雰囲気をさっとすくって定着させるという、言って見れば「日本的感受性」のお家芸は、容易に相互了解の可能な共同体的、イデオロギー的基盤を形成してしまうのであって、「イメージ至上主義」の多くのマンガは「こういう世界ってよくわかる」人々に向けられたサークル的なものになってしまうのである。もちろん、それは読者数の多少などには全く関わりのないことであり、ニーチェ的にいえばその発信が「隣人」に向けられているのか、「遠人」に向けられているのかの相違であるに違いない。

 

 こうした文脈のなかで見ると、雰囲気にもノスタルジックなイメージにも寄りかかることのない蛭子能収のマンガの強靭さが再認識されるが、蛭子能収のマンガの運動もまたいささか異なった様相を呈している。

 

 蛭子能収は明らかに「つげ義春以後」に属するにもかかわらず、運動のシークエンスを大事にするマンガ家である。総じて蛭子マンガには完全にそれまでの運動をせき止めてしまうようなコマは存在せず、たとえ凝結したような汗が顔に張り付いているにしてもそうなのである。

 

 例えば、「地獄に堕ちた教師ども」や「仕事風景」、「疲れる社員たち」(とりあえず『地獄に堕ちた教師ども』に収められているものに限れば)の暴力場面は、映画のカット割りをかなり意識した、「つげ義春以前」の基準による経済効率にかなったもので、全体的に見ても物語の進行と(一見)関係のないコマが所々に挿入されてはいるものの、そのことによって叙述の進行が妨害されることはない。

 

 蛭子能収が「つげ義春以後」であるわけは、イメージに意味を沈殿させるためでも、不連続的な絵の集まりを雰囲気や情緒のもとに短編のマンガとして仕上げたためでなく、逆に、「つげ義春以前」であったならば排除されていたであろう要素を叙述の進行に無理矢理に詰め込んだことによる。

 

 つまり、一見無関係に挿入される(例えば地平線の)コマは、過剰な意味や情緒を担わされて運動をくくり阻害するのではなく、過剰な要素によって負荷をかけられた叙述の進行自体がショートした結果生み出された火花のようなものだと言ったらいいだろうか。過剰なのは、ある種の法と運動である。

 

 蛭子能収のマンガが欲望が跳梁するアナーキーな世界ではなく、いかに様々な法に支配される世界であるかは後述することにして、運動について言えば、一見逆説的に思える「つげ義春以後」における運動の強調は、「以前」においては叙述に従属していた運動がその従属的な位置を離れ、物語を円滑に進める「為の」運動ではなく、運動自体として姿をあらわすということである。

 

 「つげ義春以前」の一コマ、あるいはコマの連鎖における運動の表現に対する工夫、実験が運動を一つの全体として捉えようとする試みであり、つげ義春の発見がコマの連鎖によるものではなくとも一つのコマにそのコマ固有の持続があるのだということであったとすれば、蛭子能収の運動は「つげ義春以前」の運動をつげ義春の持続で再編成したと言える。

 

 つまり、蛭子マンガではコマのつながりによって運動が描かれているが、それはマンガの限界としてあるコマの不連続性を解消する為の努力としてではなく、むしろその不連続性を積極的に受け入れようとする方向においてである。

 

 「以前」において運動は、シークエンスとして捉えられる始まりと終わりを持ち(一つの行動だけが孤立してあるわけではないので、実際には始まりは前の行動の終わりと、終わりは次の行動の始まりと分けることができない場合も多いが)、その最も高まったところ、あるいは何らかの抵抗や行為者の意志によって変化がもたらされるところにアクセントがおかれ、描かれていたが、蛭子マンガの行動は、そうした行動を描写するのに最適の瞬間からは多くの場合にずれているように感じられる。

 

 それが早すぎるのか遅すぎるのかは定かではないが、その結果として、行為の高まり、変化のときに捉えられた運動のようにそのコマを越えて次のコマへとマンガを読む者の意識を方向づけはせずに、非連続的な行為の静止像の連続を通じての持続感を感じさせることになる。したがって、蛭子マンガの運動は描かれている対象の運動から描くことによって生み出される運動、一つのシークエンスとしての運動ではなくある場面の非連続的な積み重ねとしての持続感へと重点が移されている。

 

 「地獄に堕ちた教師ども」では、例えばそれゆえに、特徴的な運動=持続は、教師の生徒に対する暴力の場面ではなく、マンガのはじめから繰り返しあらわれ全体の地となっている絵なのであり、この、マンガの全体を通じて通奏低音のように流れる絵は、同じく生徒の(これも大体においては正面からの)バストショットによって補強されながら最後に至っては圧倒的な優位を占め、取れかけの首を含めるならば、生徒たちを捉えた1コマを挟んで7コマにわたって繰り返される。

 

 『地獄に堕ちた教師ども』の一冊は、ほとんど全編にわたってこのバストショット(そしてクローズアップ)が基調となっているといっても言い過ぎではなく、この一見して変化がなく、また叙述を進める上での必要なものとして見逃されることもありうるコマは、積み重なることによって単なるコマ以上の、どちらを向いても他人の顔と相似する世界を作り上げる。そしてその顔が奇妙なほど互いに似ていることがそうした顔を「認識のデッドエンドとしての地平線」や「あまりに近すぎるものとしての汗」に相当するものとする。

 

 つまり、人物のバストショットは、繰り返し描かれることによってマンガの空間を一様な、蛭子的地平線がそうであるように、単にそこにあるものとして一様なものにするとともに、そこに描かれる人物の顔があまりにも互いに似ていることによって、通常認められているそうしたコマの叙述の進行の手段としての役割を大きく逸脱し、蛭子的汗がそうであるように、確かにそこに描かれているのは普段見慣れた人間の顔であるはずなのだが人間ではないような、確かにこれはどんなマンガにも見られるバストショットに過ぎないはずであるのにどうもそうした漫画で許されているものとは異なるような、最も身近なものが異質なものに変化する瞬間に我々を立ち会わせる。

 

 繰り返されるバストショットあるいはクローズアップに準ずるものとして、同一の構図の同一の台詞の反復があり、擬音の効果的な使用がある。『ゲイジュツ魂』所収の「美しき死体」は殺人事件と現場写真、人間の死体をいかに芸術的に撮るという目的が、死体の増殖によって無効にされてしまうという話で、その死体の増殖を促すかのように中盤から響き始めるのが音の繰り返しによる擬音である。走る靴音「ダッダッダッ」、饅頭を食べる音「パクパクパク」、葬儀屋が死体を洗う音「ゴシゴシゴシ」、コーラを飲む音「ゴクゴクゴク」、バーのマダムと待ちくたびれたケンさんたちのいびき「グーグーグー」、それらの擬音が畳み掛けるかのように重なって、最後の、道中に死体が散乱し、黒く開いた窓のそれぞれから首吊り死体がのぞく団地の絵へと収斂してゆく。

 

 また同じく『ゲイジュツ魂』所収の「私から好かれた女」では、前編においては、ほぼ正確に三回、そして電話のシーンを挟んでさらに一回女が(仕事を終えてか)自分の部屋に帰り、鍵を開け、電気をつけ、鞄を放り、手紙を開けるという動作が繰り返され、後半ではその反復に取って代わるように死んでいながらも勃起している男の男根(しかも人間の顔を持ち話すことができる)の、勃起した状態をあらわすのか実際に男根が発している音なのかはっきりしない「ビンビンビンビンビン・・・」という擬音がその音によって飛行機までも呼び寄せつつ、しかも吹き出しから飛び出して画面を無作為に埋めることになる。

 

 蛭子マンガにおいては、擬音もそれらしさを出すための効果音なのではない。「パクパクパク」も「ビンビンビン」も食べるときの、あるいは勃起時の音であることを越えて(それは口実に過ぎず)、文字通りの音の積み重ね、増殖する死体のように身近でありながら異質なものから発せられるものだと言える。