地平線・乗り物・賭け――蛭子能収論3

 

復活版 地獄に堕ちた教師ども

復活版 地獄に堕ちた教師ども

 

 

      2
     
 蛭子マンガの地平線、およびそれを含む風景の特異性についてはすでに述べてきたところだが、視覚的な表現のなかでそうした風景の特異性に対応するものがないわけではない。それはネオリアリズムからヌーヴェエルバーグへと続く映像においてである。

 

 「私の好みは殺伐とした乾きとかクールさであってロマンではない」と蛭子能収自身言うように、フィルム・ノワールにおいて夜の闇とそれを切り取る光の様式性のうちにあった都市は、アントニオ―二やゴダールの映画においてはその殺伐とした姿を白日のもとにさらす。アントニオ―二の空虚な空間への偏愛やゴダール映画の都心からは離れているが決して田舎ではない郊外の、建築物とそれを取り巻く空間とが微妙な均衡を保っている(都市の中心ほど建物が空間を占領しているわけではなく、田舎ほど空間のみが拡がっているのでもない)ロケーションなどは、影響関係が存在するのかどうかはさておき(エッセイによれば、ゴダール蛭子能収のお気に入りの監督の一人であるらしいが)、蛭子マンガに対応するといえるだろう。


 映画とマンガの関係。手塚治虫は映画を常に意識していて大変な数を見ていたらしいし、映画によっていかにそのマンガが触発されて様々な実験が行われたかは多くの人が指摘するところである。しかし、手塚治虫以後映画によってマンガの性質まで変化してしまうほど両者を分かちがたいものとして経験したものがあるのかどうか、あるいは二つのジャンルに固有の歴史のことを考えると、手塚治虫という個人の上にその異なった二つの歴史が交叉したこと自体が幸運なことだったのか。


 いずれにしても、マンガというそれ自体では静的な絵の連なりがいかにして運動感を手に入れることができるか、という問題が手塚治虫が映画をモデルとしたときに最も重要な側面としてあったと思われる。

 

 その問題は二つの方向に従って解決が試みられる。一つは文字通り動いているもの、変化しているものをどのように描写するかということである。それは動くことによる空気の流れを細い線によってあらわすことや、同じく汗が後ろに飛ぶ様子、あるいは擬音や激しく物がぶつかったときにでる星や、駆けているときなどに舞い上がる砂埃など、各コマの内部で行われる、運動自体の表現であるよりは運動によって引き起こされる変化を可視的なものにすることによって運動感を表現しようとするものである。

 

 そのほかにも、残像を残すことによる手段があり、格闘を中心としたマンガでは有効に使われている。ギャグマンガでは手足がじたばたすることで幾本にも分かれることがあるけれども、そこでは運動感に力点が置かれているのかコミックな効果に置かれているのか微妙なところである。また、少女マンガにそのもっとも極端な形が見られる長い手足と小さな頭は、理想化された西欧人の体系を更にデフォルメしたものともとれるが、西欧化されたより広い空間における生活様式のなかでの運動感覚は腰の高さ(相対的な視点の高さ)と行動半径(手足のコンパス)の広さによってしか出せないという無意識的な判断が働いたとも考えられる(空間の広さに対抗する一つの手段としての手足の長さについては『エースを狙え!』などのスポーツ・マンガを参照)。


 こうした各コマ内での工夫とともに、第二に、コマの連鎖のなかでの叙述の経済的効果とでもいうべきものがある。運動を細分化し、分析すればするほど運動から遠ざかってしまうことは、ゼノンのパラドックスに見られるとおりで、運動のイメージは運動の全体を通して喚起される(ロブ=グリエの小説では細密な描写が、描写されているものの運動を奪い去り、ぎこちない凝固のなかに追い込むにもかかわらず、描写という行為自体が運動感を喚起するが、それはまた別の話である)。

 

 したがって、ある一つの運動のなかでどの部分を取り上げるのか、運動はどのような方向からどれだけのコマ数で扱われるべきか(コマ数があまりに少ないと不連続感を与えるだろうし、コマ数があまりに多いとすでに述べたように運動感自体が失われてしまうだろう)、が問題となり、コマの大きさの変化によるリズムづけなどにより、マンガの越えることのできない条件としてあるコマがあることによる不連続感(まったくコマを用いないにしてもページがコマの代わりになるだろうし、絵巻物にしてもある種のコマやページに当たる線が前提されているように思われる)をおそらくはこれまでのマンガジャンル(あるいはより細かくいえばそのサブジャンルである「スポーツ根性もの」、「ギャグマンガ」、「SF」等々)に固有の技法上の進展と、社会的コンテキスト(他のメディアとの関係や社会生活の速度といったようなもの)によってある程度の目安がつけられる叙法とそこに展開される運動とのほどよい調和でもって置き換えようとする。

 

 コマ単位での運動の描写とコマの連鎖による叙述内での経済的効果は実際には切り離しえないものであり、その結びつきがコマの変形(コマの変形による運動間の増大及び運動間の増大が促すコマの変容)といった実験を生み出しもする。

 

 しかしながら、大雑把につげ義春を標識にしてそれ以前それ以後を考えてみたときに、つげ義春以後においてはもはや叙法における運動の調和のとれた配分に関する共通の認識は成り立たなくなっているようである。つまり、運動のイメージがコマのつながりにおいては追求されない場合が生じ、むしろコマの非連続性から、あるコマが次のコマに経済的な効率によって流れないことからくる、一つのコマの持続性が求められるようになる。

 

 再び「ねじ式」を例にとれば、ここではメメクラゲに腕を噛まれた少年の彷徨が描かれているのだが、それはコマの連続性に基づいて描かれはせず、ひとつひとつのコマは前のコマとある一連の運動を分節する形で繋がっているのではない。無論、医者を探すということにおいて大まかな運動の方向づけはされているのだが、各コマはその運動を先送りにはせず、却って先に流れようとする運動を各コマがせき止めている。ここでの運動はどこで終わっても構わないのであり、であるからこそ登場人物が全て凝固したような印象を与えることも、経済的な連鎖から見れば関係がないと思われるコマ、流木か動物の骨か何かが描かれているコマや軍楽隊のシルエットが現れるコマが挿入されることも形式的には正当なものとみなされるのである。

 

 つげ義春が衝撃的だったのは、胎内回帰願望に彩られたノスタルジックなイメージを生み出したことにあったのではなく、ひとつのコマが持ちうる力を発見したことにあるのだと言える。それゆえに、資質としては全く異なる蛭子能収つげ義春の後に続き得たのである。逆に、このコマの絵としての完成を、意味、あるいはノスタルジックな感受性の沈殿としてのイメージとしてとらえてしまうところから、「ガロ」によく見受けられる「イメージ至上主義」が発しているのだろう。

 

 つげ義春の衝撃を上述したこととやや異なった側面から述べれば、短編マンガの再発見ということが言える。長編の雛形、胚芽としての短編なのではなく、それ固有の論理を備えた短編というジャンルが発明されたのである。物語を語る代わりになされるのは、ある種の雰囲気、存在感、あるいはより抽象的な論理を提示することであり、それを経済効率に則った(それを逸脱するにしても進行をとどめることはない)物語る行為において展開することではない。

 

 しかしながら、こうした発見の影響は功罪半ばするといえて、というのも、微妙なニュアンスや雰囲気をさっとすくって定着させるという、言って見れば「日本的感受性」のお家芸は、容易に相互了解の可能な共同体的、イデオロギー的基盤を形成してしまうのであって、「イメージ至上主義」の多くのマンガは「こういう世界ってよくわかる」人々に向けられたサークル的なものになってしまうのである。もちろん、それは読者数の多少などには全く関わりのないことであり、ニーチェ的にいえばその発信が「隣人」に向けられているのか、「遠人」に向けられているのかの相違であるに違いない。

 

 こうした文脈のなかで見ると、雰囲気にもノスタルジックなイメージにも寄りかかることのない蛭子能収のマンガの強靭さが再認識されるが、蛭子能収のマンガの運動もまたいささか異なった様相を呈している。

 

 蛭子能収は明らかに「つげ義春以後」に属するにもかかわらず、運動のシークエンスを大事にするマンガ家である。総じて蛭子マンガには完全にそれまでの運動をせき止めてしまうようなコマは存在せず、たとえ凝結したような汗が顔に張り付いているにしてもそうなのである。

 

 例えば、「地獄に堕ちた教師ども」や「仕事風景」、「疲れる社員たち」(とりあえず『地獄に堕ちた教師ども』に収められているものに限れば)の暴力場面は、映画のカット割りをかなり意識した、「つげ義春以前」の基準による経済効率にかなったもので、全体的に見ても物語の進行と(一見)関係のないコマが所々に挿入されてはいるものの、そのことによって叙述の進行が妨害されることはない。

 

 蛭子能収が「つげ義春以後」であるわけは、イメージに意味を沈殿させるためでも、不連続的な絵の集まりを雰囲気や情緒のもとに短編のマンガとして仕上げたためでなく、逆に、「つげ義春以前」であったならば排除されていたであろう要素を叙述の進行に無理矢理に詰め込んだことによる。

 

 つまり、一見無関係に挿入される(例えば地平線の)コマは、過剰な意味や情緒を担わされて運動をくくり阻害するのではなく、過剰な要素によって負荷をかけられた叙述の進行自体がショートした結果生み出された火花のようなものだと言ったらいいだろうか。過剰なのは、ある種の法と運動である。

 

 蛭子能収のマンガが欲望が跳梁するアナーキーな世界ではなく、いかに様々な法に支配される世界であるかは後述することにして、運動について言えば、一見逆説的に思える「つげ義春以後」における運動の強調は、「以前」においては叙述に従属していた運動がその従属的な位置を離れ、物語を円滑に進める「為の」運動ではなく、運動自体として姿をあらわすということである。

 

 「つげ義春以前」の一コマ、あるいはコマの連鎖における運動の表現に対する工夫、実験が運動を一つの全体として捉えようとする試みであり、つげ義春の発見がコマの連鎖によるものではなくとも一つのコマにそのコマ固有の持続があるのだということであったとすれば、蛭子能収の運動は「つげ義春以前」の運動をつげ義春の持続で再編成したと言える。

 

 つまり、蛭子マンガではコマのつながりによって運動が描かれているが、それはマンガの限界としてあるコマの不連続性を解消する為の努力としてではなく、むしろその不連続性を積極的に受け入れようとする方向においてである。

 

 「以前」において運動は、シークエンスとして捉えられる始まりと終わりを持ち(一つの行動だけが孤立してあるわけではないので、実際には始まりは前の行動の終わりと、終わりは次の行動の始まりと分けることができない場合も多いが)、その最も高まったところ、あるいは何らかの抵抗や行為者の意志によって変化がもたらされるところにアクセントがおかれ、描かれていたが、蛭子マンガの行動は、そうした行動を描写するのに最適の瞬間からは多くの場合にずれているように感じられる。

 

 それが早すぎるのか遅すぎるのかは定かではないが、その結果として、行為の高まり、変化のときに捉えられた運動のようにそのコマを越えて次のコマへとマンガを読む者の意識を方向づけはせずに、非連続的な行為の静止像の連続を通じての持続感を感じさせることになる。したがって、蛭子マンガの運動は描かれている対象の運動から描くことによって生み出される運動、一つのシークエンスとしての運動ではなくある場面の非連続的な積み重ねとしての持続感へと重点が移されている。

 

 「地獄に堕ちた教師ども」では、例えばそれゆえに、特徴的な運動=持続は、教師の生徒に対する暴力の場面ではなく、マンガのはじめから繰り返しあらわれ全体の地となっている絵なのであり、この、マンガの全体を通じて通奏低音のように流れる絵は、同じく生徒の(これも大体においては正面からの)バストショットによって補強されながら最後に至っては圧倒的な優位を占め、取れかけの首を含めるならば、生徒たちを捉えた1コマを挟んで7コマにわたって繰り返される。

 

 『地獄に堕ちた教師ども』の一冊は、ほとんど全編にわたってこのバストショット(そしてクローズアップ)が基調となっているといっても言い過ぎではなく、この一見して変化がなく、また叙述を進める上での必要なものとして見逃されることもありうるコマは、積み重なることによって単なるコマ以上の、どちらを向いても他人の顔と相似する世界を作り上げる。そしてその顔が奇妙なほど互いに似ていることがそうした顔を「認識のデッドエンドとしての地平線」や「あまりに近すぎるものとしての汗」に相当するものとする。

 

 つまり、人物のバストショットは、繰り返し描かれることによってマンガの空間を一様な、蛭子的地平線がそうであるように、単にそこにあるものとして一様なものにするとともに、そこに描かれる人物の顔があまりにも互いに似ていることによって、通常認められているそうしたコマの叙述の進行の手段としての役割を大きく逸脱し、蛭子的汗がそうであるように、確かにそこに描かれているのは普段見慣れた人間の顔であるはずなのだが人間ではないような、確かにこれはどんなマンガにも見られるバストショットに過ぎないはずであるのにどうもそうした漫画で許されているものとは異なるような、最も身近なものが異質なものに変化する瞬間に我々を立ち会わせる。

 

 繰り返されるバストショットあるいはクローズアップに準ずるものとして、同一の構図の同一の台詞の反復があり、擬音の効果的な使用がある。『ゲイジュツ魂』所収の「美しき死体」は殺人事件と現場写真、人間の死体をいかに芸術的に撮るという目的が、死体の増殖によって無効にされてしまうという話で、その死体の増殖を促すかのように中盤から響き始めるのが音の繰り返しによる擬音である。走る靴音「ダッダッダッ」、饅頭を食べる音「パクパクパク」、葬儀屋が死体を洗う音「ゴシゴシゴシ」、コーラを飲む音「ゴクゴクゴク」、バーのマダムと待ちくたびれたケンさんたちのいびき「グーグーグー」、それらの擬音が畳み掛けるかのように重なって、最後の、道中に死体が散乱し、黒く開いた窓のそれぞれから首吊り死体がのぞく団地の絵へと収斂してゆく。

 

 また同じく『ゲイジュツ魂』所収の「私から好かれた女」では、前編においては、ほぼ正確に三回、そして電話のシーンを挟んでさらに一回女が(仕事を終えてか)自分の部屋に帰り、鍵を開け、電気をつけ、鞄を放り、手紙を開けるという動作が繰り返され、後半ではその反復に取って代わるように死んでいながらも勃起している男の男根(しかも人間の顔を持ち話すことができる)の、勃起した状態をあらわすのか実際に男根が発している音なのかはっきりしない「ビンビンビンビンビン・・・」という擬音がその音によって飛行機までも呼び寄せつつ、しかも吹き出しから飛び出して画面を無作為に埋めることになる。

 

 蛭子マンガにおいては、擬音もそれらしさを出すための効果音なのではない。「パクパクパク」も「ビンビンビン」も食べるときの、あるいは勃起時の音であることを越えて(それは口実に過ぎず)、文字通りの音の積み重ね、増殖する死体のように身近でありながら異質なものから発せられるものだと言える。