一言一話 92

 

 欲望と同一化

欲望(欲望する主体)は最初に来るのではなく、欲望が充足することを許す同一化に<続いて>やってくる。始めにくるのは同一化への傾向、欲望を生じさせる原初的な傾向である。そしてこの欲望は、最初から、既にして幻想にいついている擬似的主体の場から目障りなものを追い払う(ミメティックで、競合的な)欲望である。そういうわけで、願望充足について先に私が述べたことがぴったりと適合する。もし欲望が同一化において、そして同一化を通じて満足されるならば、それは欲望がともかくその「満足」に先行するという意味においてではない。なぜなら、欲望する主体(「私」、エゴ)はけっしてミメティックな同一化に先立たないからである。同一化が欲望する主体を生み出し、その逆ではない。

 「欲望は夢において充足される」この言明は「時は満ちた」と匹敵するものと理解されるべきである。欲望の誕生の前に生じ、規定され、叙述されていたもの−−即ち、非決定的な同一化にある主体「自身」−−は夢において(以前生じたのであるにしても)もたらされる。<完全な解釈の後では、すべての夢は運命の完遂であることが判明する>。

 かくして、我々は同一化と欲望の関係について結論に達することができる。同一化は、偽装、変形、置き換えに起因するのではなく、歪曲から生じない。このように提示することは欲望の主体はその仮面に、幻想の場に先行すると仮定し続けることを意味するだろう。それは表象の主体(subjectum,kupokeimenon)を仮定し続けることを意味するだろう。そして主体性の最も根深い問題規制を繰り返している限り、我々はまた欲望の根深い誇大妄想を満たしているのであり−−結局それは主体たらんとする意志、(自らに現前しようとする意志、自由で、自−律的で、完−壁たらんとする意志)に他ならない。我々は夢を見続けることになるだろう。

 しかしそれは違う。もし歪曲があるのならば、それは始めにくる。いわゆる欲望の主体は、盲目的に他者性の視点、他者というもの(つまり、ある他者ではない)の場を占める同一化の前にはいかなる自己同一性をももたない。初源的な疎外(つまりある阻害ではない)、初源的なおとり(つまりこれもあるおとりではない)への同一化以前にどんな自己同一性もない。虚偽が存在し、偽装が存在する前では、欲望は別の名で通り過ぎる。

 

数々の幻想を指摘したフロイトが、主体もまた幻想なのだと指摘しているという視点。