ブラッドリー『仮象と実在』 188

存在論的な証明、その失敗と正当性。]

 

 最後に簡単に「存在論的な」証明について考え、この問題に光を投げかけることにしよう。第十四章で、我々はそこから生じるひとつの意味合いだけしか扱えなかったが、ここではその一般的な真理を評価するよう努めてみよう。ひとつの議論としては、思考が含む実在についてのある考えから引きだされる結論がある。もちろん、ちょっと見ただけではそれは無益なことに見られるだろう。実在と空間的、あるいは時間的存在を同一視し、思考によって個別の有限な対象を理解するなら、その観念が単に「私の頭の中」にしかないということほど明らかなことはないだろう。しかしながら、このことから誤りの一般的な性質を考えることに目を転ずると、明らかに思えたことは不明瞭になり、難問となってあらわれる。「私の頭のなかに」あるものは、結局のところ、宇宙のどこかにあらねばならないのは確かではないだろうか。ある観念が宇宙を性質づけるとき、それが実在から排除されることなどどうしてあり得ようか。そうした問題に答えようとすることは、実在と有限な存在物とを区別するよう導かれる。そして、これに関して、存在論的な証明は考えてみる価値のあることだろう。

 

 さて、「頭のなか」にしかない思考、あるいは実在の世界とのあらゆる関係から切り離された観念そのものは間違った抽象である。というのも、ある思考をもつとは、それが多かれ少なかれ漠然としたものであろうと、実在を参照することである。それゆえ、なにものをも参照しない観念は自己矛盾であろう。この一般的な結果は同時に、存在論的な証明に関係する。明らかに、その証明は実在に関連し、実在を性質づけるような観念から出発し、実在とともに、観念の内容によって提示され決定されるものを提示しなければならない。そして、議論の原理は端的に言うと、そうした全体の一方の側に立つならば、必然的に反対側にまで動いてしまうことにある。単なる思考は、不完全なために、そこにすでに含まれている他の要素を論理的に示唆することになる。その要素とは、存在のうちにあらわれる実在である。まさしく同じ原理を反対側から始め、「宇宙論的な」証明は、実在の性格を論じるものだということもできる。実在は思考によって性質づけられているので、思考の本質が含むどんな特徴であれもっていなければならない。 こうした議論の原則――つながった全体の一方の側が与えられると、反対側に移ることができる――は確かに避けることはできない。

 

 存在論的な証明の真の失敗は至る所にある。というのも、この証明は、観念が確かになんらかの実在でなければならないことでさえ強く主張しないからである。この言明を踏み越え、「現にある実在」によって観念を性質づけてしまう。そこで、議論は誤りにそれがちになるように思える。というのも、あらゆる述語がそれ自体実在について正しいという一般的な原理は明らかに間違いだからである。反対に、真理と実在とは程度の問題であることをすでに学んだ。ある述語がそれ自体、どんな場合でも真であるとはいえない。すべては付加されるもの、性質づけ、再配列に従うことになろう。その真理は、いかなる述語でも、実在になればその正確を保持するという程度までなることはあろう。完全の観念を扱った第十四章で、存在論的な議論がどのようにだめになるかは部分的に見た。この章の一般的な結論は諸困難を一掃することだろう。私の頭にあるどんな配列であっても絶対的実在を性質づけるに違いない。しかし、私の個人的な見解についての間違った抽象が補完され、正しいものとされるとき、その配列そのものは完全に消え去ってしまうだろう。存在論的な証明は、この教義を別の仕方で主張しているに過ぎない。あらゆる観念はそれ自体実在で、それ自体存在をもつわけではない。しかし、思考の完成度が大きくなり、その可能性と内的な必然性が増加するに従い、より多くの実在性がもたれることになる。そして、必然的に、より多くのものがあらわれなければならなくなると、どのようにはそれは存在にあらわれることになる。

 

 しかし、存在論的な議論は、あらゆる有限な事物に適用されるといってしまうと不当な主張になるということは正確を期するために言っておくべきだろう。それは絶対に対して用いられ、それに限定されれば、妥当であろう。我々はこの主張を認めざるを得ない、と私は思う。絶対的なものの観念は、観念としては不整合である。それを完成させるためには、内的に存在させねばならない。しかし、そこでさえ、我々は「かく」付け加えられたものにさえ抵抗し続けることを余儀なくされる。最終的には、どんな観念も、厳密には実在に到達し得ない。というのも、観念としては、それは獲得された諸条件の全体性を決して含むことはない。実在は具体的であり、もっとも真である真実は多かれ少なかれ抽象的でなければならないからである。あるいは、同じことを議論の形式に対する反対として述べてみよう。前提で仮定される分離は結論で破壊される。それゆえ、前提そのものは真ではあり得ない。この反論は正当で、最終的に、あらゆる可能な議論に当てはまるほどのものである。しかし、その反論は過程の本当の性格を認めたときに消えさえる。それは各部分の孤立を全体によって正すことに存している。そして、存在の側から始めようが思考の側から始めようが、過程は本質的には同一のままだろう。主語と述語があり、そのそれぞれに相手と同一化するだけの内的な必然性がある。しかし、分離の超越が達成されると、述語も主語も生き残ることはできない。それらは保存されるが、変えられてしまっている。

 

 結論において主張しておいたほうがいいもう一つの点がある。実在ということで現前する出来事としての存在が意味されるなら、その意味においては、実在であるとは、低い存在の型にある。事物がよりよい存在になるために、実在と真理の範囲において大きな進展は必要ない。ある種粗悪な存在論的証明を用いて、私が意味するところを示してみよう。(1)あらゆる観念は知覚可能な側面をもっていることは確かである。別の言葉で言えば、内容は別にするとしても、出来事でなければならない。さて、様々な諸観念の存在を心的な出来事として記述することは、その大部分が形而上学を外れている。(2)しかし、この問題はここではある種の意味合いをもっている。ある観念の存在は、程度の差はあれ、その内容と不調和である。そして存在に対して観念を述語とすることは多様な不整合を含むことになろう。たとえば、過去の観念についての思考は、現在の心の状態である。ある美徳についての観念は、道徳的な悪徳であるかもしれない。存在すると判断される馬は、現実的な馬のイメージと同じ領域には住むことができないかもしれない。(3)他方において、少なくともほとんどの場合、怒りについて考えることは、どれだけわずかなものだろうと、怒ることである。通常、出来事としての快や苦痛の観念は、それ自体事実上快や苦痛である。観念が単一の現前の一側面でしかあり得ないようなところでは、観念的な内容が存在し、それが事実上の出来事であるということができる。そのような場合、存在論的証明らしきものを適用することが可能である。つまり、事実の存在が観念の基礎、そして条件として必然的であるので、観念の現前から事実の現前へと進むことができる。もっとも顕著な例は、「これ」あるいは「私のもの」という観念によって与えられるものだろう。実在との直接的な接触は、明らかに、事実として我々を誤らせることはない。そして、我々がこの接触に関する観念を用いるとき、常にそれはなんらかの形であらわれている事実からとられている。それゆえ、観念が与えられ、その存在が欠けていることは不可能である。

 

 

*1

 

*1:

(1)『論理学原理』67-9ページ。

(2)その問題は心理学のものであり、抽象的観念についていえば、それが非情に不満足な条件にあるようだといっても許されるだろう。言語に立ち返ったとしても、結局のところ、抽象的観念が使用される際に、どれだけのものが精神を通過するのか正確なところはわからないだろう。

(3)『マインド』xxxiv286-90, xliii,313-14と比較のこと。