大岡昇平『わがスタンダール』
昭和八年(1933年)の二月に、『パルムの僧院』を読んで衝撃を受け、小林秀雄が『地獄の季節』を読んだときのように、ある本が「生涯の事件となる」ことがあるとすれば、このときの経験こそがそれであり、「籠っていた家の窓外の下北沢の冬の外光をよく覚えています。」(「外国文学放浪記」)と大岡昇平は書いている。(ちなみに「外国文学放浪記」はこの本には収録されていない。)
『富永太郎』『天誅組』『レイテ戦記』など、細かな考証をいとわなかった大岡昇平が、「生涯の事件」であるスタンダールについて、まとまった著作を書かなかったのを意外に思っていた。この本にはその間の事情が記されている。
『パルムの僧院』に圧倒された大岡昇平は、スタンダールの自伝である『アンリ・ブリュラールの生涯』にも魅力を感じ、訳し始めるが、三分の一ほど訳したところで、ナポレオン戦役とウィーン体制後のヨーロッパの時代を把握しなければ、スタンダールの作品全体の持つ意味はわからないはずだ、と大岡昇平特有の完全主義が顔を出す。
さらにその頃ほとんど生活を共にしていたといっていい小林秀雄の『私小説論』から「社会化した私」ということが文壇の中心的な話題となり、そこにスタンダールがうまく適合しなかった。主要な作品について、また主なスタンダール論についても、翻訳がそろっておらず、それを引き受ける形になった。そのうちに第二次世界大戦が始まり、従軍した。
戦争から戻ってからは、『俘虜記』『野火』、そしてそれらの集大成である『レイテ戦記』を発表し、戦後派作家として遇され、また自分の小説家としてのテーマを追うことに忙しくなり、完全主義者である大岡昇平も、海外の新発見や新解釈にまで目を通す暇がなくなり、結局時期を逃してしまったと見える。
短い文章を集めたものであっても、啓発的な部分は多い。
リアルなものを描こうとする努力はスタンダールにもバルザックにもあったが、自らリアリズムを標榜したわけではなかった。リアル=真実を小説で描くという主張には逆接が含まれている。小説を読む快楽が作中人物とともに生きるという幻覚にあるならば、たとえ作者が真実と自ら見なすものを描いたとしても、読者はそれを意味と感動を与える幻影を受け取る。そして、いわゆる主義としてのリアリズムはただ一つしか傑作を生まなかったと断定する。
レアリスムの唯一の傑作は『ボヴァリー夫人』だけである。これは周知の様にロマネスクな夢に憧れる田舎娘が現実に破れる話であるが、この崩れて行く夢を通じて描かれた現実だけが、真に裸な真実の「幻影」を与えるのである。そしてこの作品には後継者がない。主題が繰り返し得ないからである。(「『パルムの僧院』について」)
もうひとつ、意外な思いをする箇所をあげれば、「明治のスタンダール」という明治にスタンダールに言及した文献を紹介していく文章のなかで、「日本で鷗外ほどスタンダール的な作家を知らない」と述べている。確かに二人とも相応の時間、軍に属しているし、簡潔、明瞭な文を書くことでも共通しているが、鷗外はスタンダールほどロマンチックかしら。坂口安吾などのほうが近しい感じもするが。明記はされていないが、「明治のスタンダール」ということで、明治の作家に限定しているのだろうか。だとしても鷗外かな?