幸田露伴を展開する 11

 

芭蕉七部集 (岩波文庫 黄 206-4)

芭蕉七部集 (岩波文庫 黄 206-4)

 

 

 芭蕉と杜国と白芥子との因縁はこれだけではない。貞享四年十月二十五日から翌年、五年四月中旬までの旅を記した『笈の小文』では既に保美に蟄居していた杜国を訪ね、旅を共にすることになったが、そのときの須磨での芭蕉の句は「(上略)上野とおほしき所は麦のほなみあからみあひて漁人の軒近きけしの花たえだえに見渡さる」という前書きのもとに

  海士の顔まづ見らるゝやけしの花

というものであり、同行した杜国の、後に『猿蓑』に収録された句は「翁に供せられて須磨明石にわたりて」の前書きとともに、

  似合はしきけしの一重や須磨の風

というもので、師弟であった短い期間の間に、これだけ芥子の花があらわれるのにはなにか理由があるのではないか、と露伴はいぶかっている。

 

 そもそも「しらけしにはねもぐ蝶の形見かな」の句が杜国に贈られたのは杜国がどのような状態にあったときなのだろうか。『芭蕉七部集』の巻頭をなす貞享元年に催された『冬の日』の歌仙では、杜国は荷兮らとともに、席に連なり、いまだ罪を問われることもなかっただろう。貞享四年には杜国はすでに罪が決まり、死を許されて三河の保美にいたことは芭蕉の『笈の小文』によって明らかである。だとすると、杜国が罪に問われたのは、貞享二年か、最大限に早くとも、貞享元年の暮れよりは後のことで、貞享四年の冬よりは前のことになる。

 

 ところで、『七部集』の第二部に当たる『春の日』は貞享二年に催されたが、歌仙の部分に杜国の句はなく、同席していなかったことが推察される。ただ『春の日』には歌仙のほかに、わずかに発句も載せられていて、「芭蕉翁をおくりて帰る時」と題して、

  この頃の氷ふみわる名残かな

という杜国の句がはいっている。この句は芭蕉が名古屋を出て、林桐葉を熱田に訪ねる貞享元年十二月十九日の作であろう。この日に芭蕉は桐葉のところで

  海暮れて鴨の声ほのかに白し

という句をつくり、桐葉がそれに

  串に鯨を炙るさかづき

と脇を付けたことから始まる歌仙があるからである。とすれば、十二月十九日にはまだ杜国は無事だったと言える。『春の日』に越人が「餞別」と題して、

  藤の花たゞうつふいてわかれ哉

の句が杜国に対してのものだったことは充分考えられる。役人もいるなかで、個人的に言葉もかけられない状況を考えると、万感の思いのこもったものであろう。越人は約100キロ離れた保美へ杜国を訪ねていった友誼に厚い人物でもあった。

 

 結局、杜国が歌仙に参加したのは『冬の日』だけだということになるが、佳句が多い。

 

  小三太に盃とらせひとつ諷ひ 芭蕉

  月は遅かれ牡丹ぬす人    杜国

 

  江を近く独楽庵と世を捨てゝ 重五

  我が月いでよ身はおぼろなる 杜国

 

  北の方泣く泣く簾おし遣りて 羽笠

  寝られぬ夢を責むるむら雨  杜国

 

これらほど人目につくことはなくとも、

 

  やうやく晴れて富士みゆる寺 荷兮

  寂として椿の花の落つる音  杜国

 

  縣(あがた)ふる花見次郎と仰かれて 重五

  げんげすみれのはたけ六反      杜国

 

  ひとの粧(よそひ)を鏡磨ぐ寒 荷兮

  花うばら馬骨の霜に咲きかへり 杜国

 

  霧に舟牽く人はちんば歟   野水

  たそがれを横に眺むる月細し 杜国

 

  真昼の馬のねぶた顔なり  野水

  岡崎や矢矧の橋の長きかな 杜国

 

  道すがら美濃で打ちける碁を忘る 芭蕉

  ねざめねざめのさても七十    杜国

 

などいずれも軽妙とも老巧ともいえるものであって、凡手には及ぶところではない。