幸田露伴を展開する 8

 

芭蕉語彙 (1984年)

芭蕉語彙 (1984年)

 

 

 

幸田成友著作集〈第1巻〉近世経済史篇 (1972年)

幸田成友著作集〈第1巻〉近世経済史篇 (1972年)

 

 

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 『白芥子句考』は、この句が何年に、どこでつくられたものかということから始まる。何年であるかは、『野ざらし紀行』の本文に明らかであり、貞享二年の初夏であることは疑いない。尾張の熱田でつくられたことも間違いなかろう。というのも、この句の前の句、「梅恋ひて卯の花拝む涙かな」は四月五日の日付のついた其角宛ての書簡にも書かれており、そこには、「草枕月をかさねて。露命恙もなく今ほど帰庵に趣き、尾張熱田に足を休むる時」とあって、江戸に帰る途上であること、また「白芥子」の次の句、「牡丹蘂ふかくわけ出づる蜂の名残かな」の前書きには熱田の俳人である桐葉のもとにあることが記されているからである。

 

 ここまでは考証の基本的な部分だと言えるだろうが、前書きの「贈杜国」を取り上げて、「贈」と「送」との相違を指摘するところにくると、微かに肌が粟立ってくる。つまり、贈るというのは物を贈ることであり、この句を贈ったのである。送るというのは人を送る場合をいうのであって、人を送って別れに臨んだときに、俳句などがあるときにはそれは送別の句である。逆に、人に送られて別れに臨んだときの俳句は留別の句となる。桐葉が『熱田三歌仙』で、「翁美濃路へ打越えんと聞えければ」と題して「檜笠雪をいのちのやとり哉」と吟じたのは送別の句であり、先に挙げた「牡丹蘂ふかくわけ出づる蜂の名残かな」と芭蕉が吟じたのは、贈られた者の留別の句だということになる。

 

 杜国の生涯についてはあまりわかっていない。ほぼ千五百ページに及ぶ宇田零雨の広範な事典『芭蕉語彙』においても、次のような簡単な記述があるだけである。

 

南杜国。蕉門の俳人。名古屋の富商坪井庄兵衛。通称彦右衛門。別号野仁。一説に藩の米切手を濫用して罪に触れ、赦されて後三河渥美半島の畑村に隠棲すといふ。元禄三年歿。

 

 

 露伴は、各書で南彦右衛門、飾屋平兵衛、壺屋平兵衛などと杜国が称されていることから、何らかの職人、あるいはもともと先祖がそうした職人であったことからついた屋号を受け継いだ者と見ている。いずれにしろ、芭蕉が名古屋に来たときには饗応し、芭蕉を師匠として迎えることができたくらいであるから、貧しい境遇の者ではなかったであろうと推察している。

 

 なにによって罪を得たのかは露伴も分からなかったらしいが、次のようなエピソードを紹介している。杜国は、いったんは死罪の宣告を受けたが、尾張徳川光友がその名前に記憶があり、「蓬莱の句をつくったものか」と家臣に尋ねた。たしかに、「蓬莱や御国の飾檜山」と年頭において、尾張を言祝ぐ句をつくっている。近臣は「そうです」と答えた。尾張候はすぐに死一等を赦し、渥美半島の先端である保美へ所払いとした。

 

 米切手というのは、蔵々の蔵米の保管証書のようなもので、本来は米と代金を直接にやりとりすることから来る不便さを軽減するものであったが、米が経済の大きな基本であったことから、証券として売買されることになり、また、年によって豊作のときもあれば不作のときもあり、財政赤字の藩によっては来年以降の米切手を売るものもあった。

 

 幸田露伴の弟で、大阪の近世経済史や日欧交渉史などに足跡を残した幸田成友は、「米切手」のなかでこう結論づけている。

 

 要するに、幕府は空米切手の弊害を知り、これを排斥せんがために種々の手段を採りたるが、文化の末年に至るまで遂に一たびも成功せざりしといふべく、その後は別に何等の手段を講ずることもなくして明治維新に至れり。

 

 

 同情してみれば、杜国は危ない投機に巻き込まれたのかもしれない。芭蕉は杜国を門弟のなかでも、特別に愛していたらしく、『笈の小文』では杜国が流された保美を訪れているし、杜国が死んだ元禄三年の翌年、元禄四年、陰暦四月の卯月のことを記した『嵯峨日記』の廿八日には、「夢に杜国が事をいひ出して、涕泣して覚ム。」と記している。『芭蕉語彙』によれば、「涕泣」という激しい悲嘆をあらわしたこの言葉は、ここでしか用いられていないようである。「白芥子」の句を「贈った」ことにも芭蕉の愛情の深さがあらわれている。