幸田露伴を展開する 7

 

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

 

 

 

芭蕉俳句新講〈下巻〉 (1951年)

芭蕉俳句新講〈下巻〉 (1951年)

 
芭蕉俳句新講〈上巻〉 (1951年)

芭蕉俳句新講〈上巻〉 (1951年)

 

 

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 貞享元年八月、芭蕉が四十一歳のとき、深川の芭蕉庵から出発し、故郷の伊賀上野(現在の三重県伊賀市)に帰り、西行法師の草庵の跡、大和を経て、名古屋で『七部集』の第一巻となる『冬の日』を同地の俳人たちと仕上げ、約三ヶ月滞在した後に、再び旅立ち、伊賀、奈良、京都、大津、熱田、鳴海をまわって、貞享二年四月に江戸に帰り着くまでの紀行が、芭蕉の最初の紀行文『野ざらし紀行』である。

 

 千里に旅立て路糧を包ず。三更月無何入といひけん、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、江上の破屋を立出るほど風の声そゞろさぶげなり。

  野ざらしこゝろに風のしむ身かな

 

 

が冒頭の部分であり、最初の「野ざらし」の句から『野ざらし紀行』と呼ばれる。また、貞享甲子に出発したことから『甲子吟行』とも呼ばれている。約八ヶ月の紀行であるが、十ページほどの短いものであり、大半を前書きを伴った句が占めているので、内容的にいえば、「吟行」といった方が正しいかもしれない。

 

 この『野ざらし紀行』の最後の部分、最後から四句目に「贈杜国子」と前書きをつけた次の句がある。

  

しらけしにはねもぐ蝶の形見かな

 

 前書きを含めて、どの版本に基づくかによって、「しらけし」が「白罌粟」になっていたり、「はね」が「羽」、「かな」が「哉」になるなど表記が様々に異なるが、ここでは上の表記に従う。

 

 一般的な評釈をあげておこう。まずは加藤楸邨の評釈。

 

別離の句であつて対詠的であるが、全句比喩の上に立つてゐる。実際としては、羽をもいだりすることはないのであるが、白罌粟が蝶のとび離れるときひらりと散るさまを、蝶が羽もぐ様に見立てたもので、実際そんな景を見て作つたものであるかもしれない。談林時代に比喩が多かつたが、これなど、姿をかへて美化されたもので、その脈は曳いてゐる。比喩的でありながら、哀切な別離の情が出てゐるのは、真情がこもつてゐたからであらう。然し、何といつても、この比喩を通つてゐるためにそれだけ感銘を弱めてゐることは間違ないところである。私には次の、桐葉に別れる、牡丹蘂ふかくわけ出づ蜂の名残かな、と共に、技巧が過ぎてゐて従へぬ句である。(『芭蕉講座 発句篇(上)』

 

 

と否定的である。

 潁原退蔵は前半で杜国と芭蕉の関わりを述べた上で

 

紀行によれば名古屋から熱田に去る時、杜国の許に残した留別の吟らしい。今まで白罌粟の花に遊んで居た蝶が飛び去らうとして別離の情にたへず、せめての形見として羽をもいで残しておくといふのである。「羽もぐ」といふのに悲痛の情が籠つて居る。言ふまでもなく白罌粟を杜国に、蝶を芭蕉自身に喩へたのである。『師走囊』に上五を「日くらし」の誤りであらうとして解し、『句選年考』にあげた一説に、「白芥子は」とすべきであると言つて居る如きは、固より一顧の価値もない僻説にすぎない。(『芭蕉俳句新講 下巻』)

 

 

と評している。

 

 ところで、この句について、幸田露伴に『白芥子句考』(大正十年)という考証がある。