幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈1

木枯の巻

(貞享元年の八月、『野ざらし紀行』として残っている旅に出た芭蕉が、陰暦一〇月も終わりの頃名古屋に入り、以後一一月の初めにかけてなったのが『冬の日』の五歌仙だとされている。名古屋で待ち構えていたのは、必ずしも芭蕉の句に傾倒していた俳人たちではなく、独特の町衆文化を形成しつつあったものたちが、師礼をとりながらも、江戸の俳人のお手並みを拝見しようじゃないかという気負いがあった。一種の文化的な果たし合いであり、その結果蕉風に信服した杜国もいれば、最後まで異を立て続けた荷兮のような人物もいた。

 

 こうしたことは安東次男の『芭蕉七部集評釈』にはより詳細に書かれている。歌仙とは「座の文学」であり、そこに参加する人間の機微が重要な役割を演じると考える安東次男には当然のことである。一方、参加する人間の立場やその場の空気の流れをほとんど考慮に入れていないのが露伴の評釈である。従って、安東次男の評釈では、露伴の評釈が至る所で酷評されている。おそらく安東次男の評釈の方が「正しい」のだろうが、私にとっては露伴の評釈の方が面白い。その辺が伝わればいいのであるが。

 

 それは置くとしても露伴の文章は古典的で難しい。文中に括弧もなしで古典の引用が混じっていたり、露伴が当然のこととして書いていることが、われわれには当然でなかったりする。評釈の評釈をするゆえんである。基本的には露伴の文章は逐語訳しており、省略はしていない。私が書き加えるところは基本的に脚注の部分である。)

 

 ここから露伴の文章。

 

 「冬の日」は尾張五歌仙という。尾張芭蕉、荷兮などがものした俳諧連歌の歌仙五巻と追加でなっているからそういう。題が「冬の日」であるのは、俳諧がみな冬の季をもってはじまり、当然冬にあたっているからである。冬の日の次に世に出た春の日は、「春めくや人さま/”\の伊勢まゐり」、という荷兮の冒頭の句にちなんでいることは明らかである。冬の日の題になんの疑いがあろう。ところが、第五の巻の、「霜月や鶴のつく/\ならび居て」、という荷兮の発句に芭蕉がつけた脇句の、「冬の朝日のあはれなりけり」、から名づけたという者もある。思い過ごしの考えである。また、この集第一の巻の発句、「木枯らしの身は竹斎に似たるかな」、というところから、昔狂歌を好んだ竹斎に思いを及ぼし、かつ、頭に「狂句」の二字を冠し、句の前書きにも、「狂歌の才子此国にたどりしことをふと思出て」、とあることなどから、「宮柱ふろ吹たべて酒飲めば冬の日ながら熱田なりけり」、という古狂歌にちなんで、「冬の日」と名づけたと説く者もある。

 

 

*1

 

この集は熱田でできあがり*、かつまた、俳諧に遊ぶ人たちがしたことであるから、あるいはそういうこともあるかもしれない。しかし、ただ安らかに冬の日の景物を詠ずる句で各巻がはじまることから、「冬の日」と名づけたと理解していいだろう。

 

*2

*1:

狂歌の「宮柱」は熱田神宮とふろふき大根の形状からの連想。

 

*2:*すでに触れたように、安東次男は名古屋でなったものとしている。『野ざらし紀行』には、以下の冒頭の一句が、熱田から名古屋に入る途次で「風吟」されたものとして載せられている。しかし、いずれにしろ、距離的にもそう離れておらず、集まった俳人たちが名古屋に居を定めるものたちだったにしろ、実際に歌仙がどこで行われたかは想像のうちを出ない。