ブラッドリー『論理学』38

 §46.ここで反対意見のために立ち止まらねばならない。「定言的と仮言的との区別は」と我々は言われる、「実際には錯覚である。仮言的判断はすべて定言的なものに還元できるし、結局のところ定言の一種に過ぎ<ない>」のだと。もしそれがしっかりと確かめられるなら、確かに我々に深刻な難点を引き起こすことになろう。しかし、我々はそれほど困ることはないと私は考える。

 

 「もしAがBなら、それはCである、というのは、BであるAという事例はまたCでもある、と等しく、それが定言判断なのは確かだ」と言われるかもしれない。もし「BであるAの事例」というのがABという存在する事例を意味し、それ以外ではないなら、判断が定言的であることに疑いはないが、それは抽象的普遍ではない。それは単なる集合であり、我々が仮言的判断ということで意味していることを意味して<いない>のは確かである。「もしバターを火にあてると溶ける」というのは、存在するバターの固まりについての主張ではない。それを「バターをなにかにあてるあらゆる場合において等々」といった形に変えても、より以上に定言的になりはしない。「あらゆる場合」というのはここでは「どの場合を<仮定しても>」ということを意味している。

 

 実際、もし我々が常に事実についての単純な主張と仮定の力を借りた主張との相違を目にとめておけば、こうした初歩的な誤りにとまどうことはあっても、道に迷うことはないだろう。

 

 §47.これだけ言っておけば先に進むことができる。しかし、もう一つの例を挙げて、仮言的判断を定言的判断に変えようとする試みの無益さを例示してもいいかもしれない。J.S.ミルは『論理学』(I.4,§3)で、この問題を安易な優越感をもって扱っている。「条件命題は、命題に関する命題である。」

 

 「主張されているのは、どちらかの命題の真理ではなく、一方から他方への推論である。」「もしAがBなら、CはDである、というのは、『CはDであるという命題は、AはBであるという命題から論理的に推論される』と言うことの省略である。」

 

 

 この教義が命題の意味についてのミルの他の見解とどう結びつくのかについては、ミル用語の専門家が知らせてくれるだろう。我々ができるのは彼がここで言おうとしている教義を判読することだけである。(i)もし彼が本当に「<推論>」を意図しているなら、<問題は既に終わっている>。というのも、それは同時に言明はあるものについてではなく、あり得るもの、あったかもしれないものについてだということになるからである。それは単なる存在についての命題ではなく、明らかにある種の仮定を含み、それゆえ定言的形式に還元<し得ない>。ABを得たと<仮定すると>、<そのとき>論理的にCDに行き着くことになろう。(ii)しかし、ここにはこうした言い抜け以上のものがあることは疑いない。彼は一方が他方からの推論<である>と言っている。このことが意味するのは(a)現実には両者が主張されており、その上で、私が実際には第一のものから第二のものを論じているのだと主張しているのだろうか。きっとそうではないが、ではどうなのだろう。(b)どちらの命題も主張せず、それらを心に保持し、その関わりを主張しているなどということが可能だろうか。そう<かもしれない>。しかし、信じてもいない言明を取り上げ、その帰結を追うという過程は、実際のところ、仮定以外の何ものでもない。主張されたつながりは実在どうしのものではなく、命題はいまだ仮言的である。(iii)しかし、この節の終りにでてくる途方もない言葉は別の解釈を示している。「主語と述語は命題の名である。」理解しようとする希望のない労をとることはやめて、問題をジレンマの形で示してみることにしよう。それは(a)語の小さな固まりという意味における一つの命題が、私の頭のなかの個別的な出来事として同じような別の固まりに続く、ということなのか、あるいは(b)<もし>一方があれば、他方がそれに続く<であろう>、ということである。もちろん、第二の選択はいまだ仮言的である。第一の場合、最終的には定言のようなものを得るが、そこには仮言的判断(実際にはいかなる判断でも)を還元しうるようなものはなにもない。あまりにひどい誤りで、反駁する価値もないといえよう。

 

 著者の意図がどのようなものだろうと、結局のところ、我々は次のことを確信できる。仮言的判断を還元できると彼が自称している定言的判断はその名に値しないか、あるいは、言葉の曖昧さという薄膜の下に判断の条件である仮定が含まれているか、そのどちらかである。