幸田露伴を展開する 2

 

小説神髄 (岩波文庫)

小説神髄 (岩波文庫)

 

 

 

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 坪内逍遙宛ての書簡の内容は小説のことに関わる。

 

 小説家としての露伴の活動は二つの時期に分けられる。『露団々』から『天うつ浪』が中断に終わるまで、この二つの長編にはさまれた明治二十一年から三十八年、露伴数え年で二十二歳から三十九歳の間がその前期である。後期は、『運命』によって「復活」(谷崎潤一郎)を遂げた大正八年から『連環記』の昭和十五年まで、五十三歳から七十四歳の約二十年である。前期と後期の間には史伝や評論が散見されるに止まり、晩年は芭蕉七部集の評釈にかかりきりになる。

 

 明治二十三年は、こうした小説家露伴の経歴のなかでも最も多産な時期にあたる。二十一年から二十四年の四年余りで、ほぼ六十年続いた作家生活で書かれたすべての小説のおよそ三分の一が発表されている。しかし、そうしたときに書かれたこの書簡は小説に対する疑いに満ちている。

 

 露伴は、二ヶ月ほど前から我が身に取りついている憂鬱について語っている。自分が小説を書く上での導きの糸であり、目的でもあった風流は、実は無風流極まるものでしかなかった、と露伴は言う。彼が風流と考えていたのは、いかに過酷な状況にあろうが、「餓死も恐れず凍死も恐れず仮令は強盗に野に逢ふとも」、そこに「細かきおもしろみ」を見出し、「悲しみ悩みなからも楽しみ」を得ようとする態度である。一言でいえば、「正理に協う情」で、状況に左右されない「正理」を見極めさえすれば、どんな苦境からも情味を引き出すことができるだろう。

 

 ところが、こうした風流は、いまでは無風流にしか思えない。現実から「正理」に身を引き、ガラス越しに「細かきおもしろみ」を観察するのは洒落ではあっても風流ではない。露伴にとって、風流は直接的であるべきものである。したがって、作者が状況を作り上げ、支配しているような小説は「魔作の世界」、「幻術者が作り出せし舞台を仮りに名づけて其世界と欺き候やうに小説と名づけて人を欺」く無風流と言えよう。それが『八犬伝』や『アラビアンナイト』まで大掛かりになろうが取るに足りない。いずれ、「之を理に照せば悉く妄想所生の幻翳虚影張り紙細工の近江八景富士の山にて大観者の眼より見ば星火一点忽ち焼くるあはれなるもの」なのである。

 

 この書簡が明治十八年に刊行された坪内逍遥の『小説神髄』に対する露伴からの回答なのは間違いない。

 

小説は仮作物語の一種にして、所謂奇異譚の変体なり。奇異譚とは何ぞや。英国にてローマンスと名づくるものなり。ローマンスは趣向を荒唐無稽の事物に取りて、奇怪百出もて篇をなし、尋常世界に見はれたる事物の道理に矛盾するを敢て顧みざるものにぞある。小説すなわちノベルに至りては之れと異なり、世の人情と風俗をば写すを以つて主脳となし、平常世間にあるべきやうなる事柄をもて材料として而して趣向を設くるものなり。(『小説神髄』)

 

 

 露伴も、「奇異譚」の荒唐無稽を脱することによって、初めて真の小説が確立されるとすることでは逍遥と一致している。初期の代表作である『風流仏』や『対髑髏』といった、草深い山奥での怪異を扱う伝奇は、もはや露伴の思う小説たりえない。しかし、「世の人情と風俗をば写す」ことが、すなわち露伴にとっての小説でないこともまた明らかである。